古代ローマ、シーザーが運命のルビコン川を渡った時、彼の決断は歴史の流れを変えた。
その言葉は今も変わらず、人間の大きな選択の象徴として受け継がれている。そして、現代人も新たなルビコン川の前に立たされている。東京大学の副学長である太田邦史氏が東大のポータルサイトで、人類はこの数ヶ月で後戻りできない「ルビコン川を渡ってしまったのかもしれない」と述べたように、それは生成AIの進化とともに来る変革である。
昭和の時代は鉄腕アトムが夢の中のキャラクターとして愛されていた。その頃、コンピューターが自ら思考する日が来るとは、多くの人々には信じられなかった。科学者たちは揃って一笑に付し、コンピューターが自律するはずがないとにべもなく否定した。スーパーコンピューターの進化は速かったが、自律的な思考を持つターミネーターは空想の産物、ハリウッド映画の中だけの存在でしかなかった。
しかし、時は流れ、現代に至ると、生成AIの技術は急速に進化。業務の多くがこのAIに取って代わられつつある。特に、WEB制作などの分野で、生成AIの力を借りることで効率が格段に向上している。俺自身も、複雑なコードの問題を瞬時に解決するAIに頼って業務を進める日々。この速さと効率性は、人間の手には及ばない。かつて数時間を要した作業が解決までものの3分。
だが、技術の進歩の裏には別の問題が潜んでいる。過去の発明、例えば自動車や電球は、それまでの産業や仕事を一変させ、多くの人々を失業の淵へと追いやった。生成AIの波も、同様の影響をもたらすのではないかとの懸念が高まっている。事務職やデータ入力など、単純作業を中心に大きな影響を受けることが予想される。人々がAIに代わってその役割を果たす必要がなくなれば、その結果として何が待っているのか。
ホリエモンのような楽観論者は、生成AIによる業務の効率化が人々にとっての自由な時間を増やし、趣味や旅行などに充てる機会が増えると強調する。確かに、そのような明るい未来も考えられる。だが、太田氏が指摘するように、一方で生まれるであろう失業問題や社会の階層化についてどのように向き合うのか。
技術の進化は、止めることができない。だからこそ、その変革をどのように受け入れ、社会全体を良い方向へと導くのかが問われている。ルビコン川を渡る決断をするのは我々である。秋刀魚のように、時代の流れに身を任せて変わらずにいることは難しい。その秋刀魚ですら時代の変化を強いられている。ここ数年不漁が続き、庶民の魚から高級魚に代わってしまった。
変化をどのように受け止めるか、そして新しい時代をどのように創るか、これもまたチャットGPTに尋ねる時代なのか。