3.11
- 2019/03/11
- 15:06
あれから早いもので8年である。
東日本大震災は自分の人生に於いてのパラダイムシフト、大きく価値観が変わった「事件」であった。
語弊はあるが、個人的には震災を経験してよかったと思っている。
もちろん、多くの尊い命が失われ、今なお、復興は道半ば、福島では帰宅困難地域が解除されておらず、被災者が受けた心の傷は未だ癒えることはない、震災発生時刻である午後2時46分まではいつも通りの日常を謳歌していた人たちのことを慮ると胸は張り裂けそうになるばかりであるが、それでも震災は経験してよかったのである。
俺にとっての東日本大震災は圧倒的な敗北。完膚なきまでに身も心も打ちのめされた。何があっても動じないはずの俺が動じ、死をリアルに意識した瞬間である。そして俺は過度のストレスからメニエール病を患い、何度も回転性のめまいに悩まされた。一度目は為す術も分からず右往左往、深夜救急車で運ばれた。
では、何故圧倒的な敗北が良かったのであるか、生死をさまよう大敗は漠然とした話であるが生きるための糧になるのではないかと思っているのである。
歴史好きな俺は歴史から学ぶことが多い。
三国志の英雄曹操は赤壁で100万の兵を失ったが心は折れず、後に天下を統一している。徳川家康は三方ヶ原の戦いで名将武田信玄に敗れ、家康は多くの兵を失い命からがらけんもほろろに逃げ落ちいているが群雄割拠する戦国大名のなかで最終的に天下を統一したのは信長でも秀吉でもなく大敗を喫した家康である。
人間を成長させるためには多くの負け戦が必要であり、その負け戦は大きければ大きいほど得るものが多い。戦後日本がここまで大きく発展したのも多くの血を流したからに他ならない。
だからと言って自分から進んで負け戦に身を投じる必要はまったくない、わざわざ物見遊山で戦地や噴火間近の活火山に近寄る必要などない。震災も一生被災せずに済むのであればそれに越したことはない。俺が言いたいのは起きてしまった悲劇に目を背けることなく、何事かを学び、その後の人生の糧にしなくてはならないということである。
震災で我が身に降りかかった災難を怨んでもなにも始まらず得るものはない。であれば、そこから色んなことを学び取るのだ。その意味で人が経験できないようなことを経験出来てよかったといっている。
ここらへんが鬱を患う人とそうじゃない人の差なのではないかと思っている。私事であるが、俺は獄に繋がれたことがある。豚小屋の中で思ったのは普通に生きていたらこんな経験はしない、せっかくそういう特別な経験をしているのだからそこで色んなことを学ばなきゃ損だと思ったのである。
繰り返すわざわざ捕まる必要は毛頭ない。
何事もそうだが、窮地に陥るというのは貴重な体験なのだ。その貴重な体験を活かしてこそだと思うのです。人間誰しもが心になんらかの傷を持ち、痛みを持ち続けるものだと思う。だが、その心の傷をどう生かすかは結局本人次第なのである。いつまでも引きずり、生き甲斐すら見失い自死を選ぶというのであれば所詮は人の人生、否定はしないが、今死ななくともどうせいずれは100%死ぬのである。その時までその傷を糧として学び、前を向いて生きる方を俺は選びたいという話です。
東日本大震災は自分の人生に於いてのパラダイムシフト、大きく価値観が変わった「事件」であった。
語弊はあるが、個人的には震災を経験してよかったと思っている。
もちろん、多くの尊い命が失われ、今なお、復興は道半ば、福島では帰宅困難地域が解除されておらず、被災者が受けた心の傷は未だ癒えることはない、震災発生時刻である午後2時46分まではいつも通りの日常を謳歌していた人たちのことを慮ると胸は張り裂けそうになるばかりであるが、それでも震災は経験してよかったのである。
俺にとっての東日本大震災は圧倒的な敗北。完膚なきまでに身も心も打ちのめされた。何があっても動じないはずの俺が動じ、死をリアルに意識した瞬間である。そして俺は過度のストレスからメニエール病を患い、何度も回転性のめまいに悩まされた。一度目は為す術も分からず右往左往、深夜救急車で運ばれた。
では、何故圧倒的な敗北が良かったのであるか、生死をさまよう大敗は漠然とした話であるが生きるための糧になるのではないかと思っているのである。
歴史好きな俺は歴史から学ぶことが多い。
三国志の英雄曹操は赤壁で100万の兵を失ったが心は折れず、後に天下を統一している。徳川家康は三方ヶ原の戦いで名将武田信玄に敗れ、家康は多くの兵を失い命からがらけんもほろろに逃げ落ちいているが群雄割拠する戦国大名のなかで最終的に天下を統一したのは信長でも秀吉でもなく大敗を喫した家康である。
人間を成長させるためには多くの負け戦が必要であり、その負け戦は大きければ大きいほど得るものが多い。戦後日本がここまで大きく発展したのも多くの血を流したからに他ならない。
だからと言って自分から進んで負け戦に身を投じる必要はまったくない、わざわざ物見遊山で戦地や噴火間近の活火山に近寄る必要などない。震災も一生被災せずに済むのであればそれに越したことはない。俺が言いたいのは起きてしまった悲劇に目を背けることなく、何事かを学び、その後の人生の糧にしなくてはならないということである。
震災で我が身に降りかかった災難を怨んでもなにも始まらず得るものはない。であれば、そこから色んなことを学び取るのだ。その意味で人が経験できないようなことを経験出来てよかったといっている。
ここらへんが鬱を患う人とそうじゃない人の差なのではないかと思っている。私事であるが、俺は獄に繋がれたことがある。豚小屋の中で思ったのは普通に生きていたらこんな経験はしない、せっかくそういう特別な経験をしているのだからそこで色んなことを学ばなきゃ損だと思ったのである。
繰り返すわざわざ捕まる必要は毛頭ない。
何事もそうだが、窮地に陥るというのは貴重な体験なのだ。その貴重な体験を活かしてこそだと思うのです。人間誰しもが心になんらかの傷を持ち、痛みを持ち続けるものだと思う。だが、その心の傷をどう生かすかは結局本人次第なのである。いつまでも引きずり、生き甲斐すら見失い自死を選ぶというのであれば所詮は人の人生、否定はしないが、今死ななくともどうせいずれは100%死ぬのである。その時までその傷を糧として学び、前を向いて生きる方を俺は選びたいという話です。