コロナで死ぬのは間違った死に方です
- 2021/05/19
- 14:25
最近は比較的少なくなってはいるが、それでもまだコロナイコールただの風邪という人がいる。
別にそう思う人はそう思っていればいいのでそれをどうこういうつもりはないのだが、コロナに感染して死ぬということを科学とは正反対の感情論で語ってみる。
人間は言うまでもなく生まれた瞬間から致死率100%が宿命づけられており、いつか必ず死ぬ。生まれてすぐ死ぬ子もいれば100才を超える長寿の人もいる、運不運であったり、両親から受け継いだ遺伝子であったり、普段の食生活であったりと、様々な要因が重なり合って人の寿命は決められていくが、それでもやっぱりいつかは必ず死ぬ。
なにを当たり前のことを言っているんだと言われるかもしれませんが、そう当たり前のことを新型コロナは当たり前ではなくしてしまっている。
俺はある意味コロナに感染して死ぬと言うのは戦死するのと限りなく近いなぁと思っている。
何故か?
遺族は亡骸との対面も許されず、既に火葬済みの骨壺に入ったお骨のみを手渡され、この度はご愁傷様でしたでお終い。これじゃ戦死した兵隊さんの遺骨と同じじゃないか。何十年も生きてきてこの仕打ちかよと言うのが本音。俺が死んだとき、いったいどれくらいの人が泣いてくれるか分からないがとりあえず親族には焼かれる前の数分間だけでもいいから泣いてもらいたい。いや泣かなくてもいい、ロクでもねぇ奴が死んで清々したと笑ってくれてもいい、とにかく何かしらの感情を抱いて火葬までの時間を潰して欲しい。
なかには死んだらそれで終わりなのだから自分の亡骸がどうなろうとも構わないというアナーキーな人もいるにはいるが、人と動物の大きな違いはそこに理性があるかないかであり、どういうわけか神様は人間に理性を与え、この理性によって人は喜怒哀楽を感じる。その理性の終着点が死に目であったり、亡骸と対面して遺骨を火葬するまでだと思う。
先日、おふくろの小学生時代からの大親友であるTさんという方が癌でお亡くなりになられた。入院していた病院ではコロナ対策のため肉親しか面会が出来ない、おふくろは会いたくても会えず、やっと会えたのは荼毘に付された斎場の霊安置室であった。おふくろは斎場の方に事情を説明してTさんの亡骸と対面させてもらい、思い出話を沢山して、お別れをしてきたという。親友が亡くなりどれだけおふくろは悲しかっただろうかと思うが、反面、こうしてお別れが出来る心の友がいるというのは羨ましくもある。恐らく、Tさんも草葉の陰で喜んでくれていると思う。これが正しいお別れの仕方であると思うし、死に対してとりあえずは一区切りがつくのである。
今、コロナで亡くなられた方はいうなれば皆正しくない死に方なのだ。暫く死ぬ予定のなかった人がある日突然流行り病に祟られて、意識不明のままあっという間に死んでしまった。死んだ当人も死んだと気付いておらず、なんで私はあそこで寝ているのかしらと病室の天井から自分の亡骸を眺めている、そして遺族は死に目にも会えず、故人との対面は箱に入った骨壺だけ。なんなんだこれは?
人には尊厳というものがある。これは生まれたばかりの赤ん坊も然り。
その尊厳がコロナで死ぬとどうも踏みにじられるような気がしてならない。もちろん、医師や看護師、介護従事者の方がそれこそ命がけでコロナ患者と向き合っているのも分かりますし、遺体から感染する恐れもあるから先に火葬してお骨にしなくてはならないというのも分かります。
感じ方は人それぞれであるから俺の言っていることが決して正しいとは思わないが、愛する誰かが亡くなり、遺体と対面すれば、頑張りましたねと誉め言葉を掛けてねぎらったり、俺より先に逝く奴があるかよと叱ったりする、自分の気持ちをありのまま吐き出して語り掛ける、或いは手の施しようがなく、余命いくばくかというとき、病院のベッドでその人の手をぎゅと握り、意識が朦朧していても思いを伝える、実際に伝わる伝わらないは問題ではない、これが悲しくとも人と人との絆であると思うし、死に逝く人に対しての正しい向き合い方であり、礼儀だと思うのです。この一連の故人への対峙の仕方は悪く言えばステレオタイプの様式美であるかもしれないが、太古の昔から人はこうして死に逝く人を送ってきたのである。
それがコロナでは叶わない。受け取った遺骨に対してすればいいだろうという意見もごもっともであるし、結果的に遺族はそうなるでしょう。でもあんまりでじゃない。目の前に骨しかないから結果的に骨に向かって語り掛けるしかないが、言葉は悪いが味気ない。人が死ぬというのはある意味その人の人生の集大成なのである、だからこそ、死に対しても尊厳をもって、送り出す。しょうがないこととはいえ、お骨だけ手渡されるのはやっぱり正しくないなと思うのです。だからこそ、俺はコロナで死ぬのは悪いことだと思っているし、決してただの風邪ではないんだよと強くそう思っている。
別にそう思う人はそう思っていればいいのでそれをどうこういうつもりはないのだが、コロナに感染して死ぬということを科学とは正反対の感情論で語ってみる。
人間は言うまでもなく生まれた瞬間から致死率100%が宿命づけられており、いつか必ず死ぬ。生まれてすぐ死ぬ子もいれば100才を超える長寿の人もいる、運不運であったり、両親から受け継いだ遺伝子であったり、普段の食生活であったりと、様々な要因が重なり合って人の寿命は決められていくが、それでもやっぱりいつかは必ず死ぬ。
なにを当たり前のことを言っているんだと言われるかもしれませんが、そう当たり前のことを新型コロナは当たり前ではなくしてしまっている。
俺はある意味コロナに感染して死ぬと言うのは戦死するのと限りなく近いなぁと思っている。
何故か?
遺族は亡骸との対面も許されず、既に火葬済みの骨壺に入ったお骨のみを手渡され、この度はご愁傷様でしたでお終い。これじゃ戦死した兵隊さんの遺骨と同じじゃないか。何十年も生きてきてこの仕打ちかよと言うのが本音。俺が死んだとき、いったいどれくらいの人が泣いてくれるか分からないがとりあえず親族には焼かれる前の数分間だけでもいいから泣いてもらいたい。いや泣かなくてもいい、ロクでもねぇ奴が死んで清々したと笑ってくれてもいい、とにかく何かしらの感情を抱いて火葬までの時間を潰して欲しい。
なかには死んだらそれで終わりなのだから自分の亡骸がどうなろうとも構わないというアナーキーな人もいるにはいるが、人と動物の大きな違いはそこに理性があるかないかであり、どういうわけか神様は人間に理性を与え、この理性によって人は喜怒哀楽を感じる。その理性の終着点が死に目であったり、亡骸と対面して遺骨を火葬するまでだと思う。
先日、おふくろの小学生時代からの大親友であるTさんという方が癌でお亡くなりになられた。入院していた病院ではコロナ対策のため肉親しか面会が出来ない、おふくろは会いたくても会えず、やっと会えたのは荼毘に付された斎場の霊安置室であった。おふくろは斎場の方に事情を説明してTさんの亡骸と対面させてもらい、思い出話を沢山して、お別れをしてきたという。親友が亡くなりどれだけおふくろは悲しかっただろうかと思うが、反面、こうしてお別れが出来る心の友がいるというのは羨ましくもある。恐らく、Tさんも草葉の陰で喜んでくれていると思う。これが正しいお別れの仕方であると思うし、死に対してとりあえずは一区切りがつくのである。
今、コロナで亡くなられた方はいうなれば皆正しくない死に方なのだ。暫く死ぬ予定のなかった人がある日突然流行り病に祟られて、意識不明のままあっという間に死んでしまった。死んだ当人も死んだと気付いておらず、なんで私はあそこで寝ているのかしらと病室の天井から自分の亡骸を眺めている、そして遺族は死に目にも会えず、故人との対面は箱に入った骨壺だけ。なんなんだこれは?
人には尊厳というものがある。これは生まれたばかりの赤ん坊も然り。
その尊厳がコロナで死ぬとどうも踏みにじられるような気がしてならない。もちろん、医師や看護師、介護従事者の方がそれこそ命がけでコロナ患者と向き合っているのも分かりますし、遺体から感染する恐れもあるから先に火葬してお骨にしなくてはならないというのも分かります。
感じ方は人それぞれであるから俺の言っていることが決して正しいとは思わないが、愛する誰かが亡くなり、遺体と対面すれば、頑張りましたねと誉め言葉を掛けてねぎらったり、俺より先に逝く奴があるかよと叱ったりする、自分の気持ちをありのまま吐き出して語り掛ける、或いは手の施しようがなく、余命いくばくかというとき、病院のベッドでその人の手をぎゅと握り、意識が朦朧していても思いを伝える、実際に伝わる伝わらないは問題ではない、これが悲しくとも人と人との絆であると思うし、死に逝く人に対しての正しい向き合い方であり、礼儀だと思うのです。この一連の故人への対峙の仕方は悪く言えばステレオタイプの様式美であるかもしれないが、太古の昔から人はこうして死に逝く人を送ってきたのである。
それがコロナでは叶わない。受け取った遺骨に対してすればいいだろうという意見もごもっともであるし、結果的に遺族はそうなるでしょう。でもあんまりでじゃない。目の前に骨しかないから結果的に骨に向かって語り掛けるしかないが、言葉は悪いが味気ない。人が死ぬというのはある意味その人の人生の集大成なのである、だからこそ、死に対しても尊厳をもって、送り出す。しょうがないこととはいえ、お骨だけ手渡されるのはやっぱり正しくないなと思うのです。だからこそ、俺はコロナで死ぬのは悪いことだと思っているし、決してただの風邪ではないんだよと強くそう思っている。