生き方
- 2012/11/23
- 21:49
去年メニエールの発作が初めて起きたとき、医者から言われたのは詳しい原因はまだ解明されてないが強いストレスや過労からくることの多い難病だと言われた。
言わずもがな、昨年の大震災は未曾有の体験であり、自分が積み上げてきたものなどいかに無力なものかと嫌という程思い知らされた。
培ってきた価値観が根底から覆されたといっていい。
物凄いストレスやショックを受け、恐らくそれが原因でメニエールを発症したのだろうと思う。
しかし、時は経ち、震災から一年半も過ぎると、いつしか震災も昔の出来事のような気がしてきて、どことなくひとごとのような感じになっていたのは正直否めない。
それでまあ俺は俺でなんとか立ち直り、お陰様でぼちぼち忙しくさせてもらっている矢先でのメニエール病再発。
病院のベッドで点滴を打ちながら薄ぼんやり考えてたのは、この再発は去年のあの衝撃を忘るべからずという、天の啓示なんだと思った。
忘れかけていた自分を戒めるために喝を入れられたのだと思ったのである。
苦しいどころか実に有り難い発作だと思った。
医学的にどうこうという話ではない。
生き方の問題である。
苦しい状況や不遇な状況に陥ったとき、どのように考えるかでその先の道の開け方は大きく変わる。
難病で苦しいからと悩んでいても何も始まらない。
もしかしたらこの病気にも何か意義があるのじゃないだろうかと考える。
少なくとも俺はそう。
ノー天気なプラス思考は単なるアホだが、悲観に暮れて何も生み出さないマイナス思考はもっとアホである。
人生山あり谷ありは常だが山で浮かれず、谷で沈まずが俺の生き方の信条だ。
元々人生なんてもんは不平等に出来ている。
生まれながらにして財閥の御曹司と、親に捨てられたみなしごが同じ運のはずはない。
福沢諭吉は大きな間違いを犯した。
天は人の上に人を作り、人の下に人を作るのである。
真理であろう。
しかしだ、みなしごが絶対に成功しないかといえばそんなことは決してない。
親はなくとも成功している人など世の中五万といる。
不利な状況を打開出来るかどうかは結局おのれの信念と能力だ。
無能な猿には難しい話かもしれんが。
言わずもがな、昨年の大震災は未曾有の体験であり、自分が積み上げてきたものなどいかに無力なものかと嫌という程思い知らされた。
培ってきた価値観が根底から覆されたといっていい。
物凄いストレスやショックを受け、恐らくそれが原因でメニエールを発症したのだろうと思う。
しかし、時は経ち、震災から一年半も過ぎると、いつしか震災も昔の出来事のような気がしてきて、どことなくひとごとのような感じになっていたのは正直否めない。
それでまあ俺は俺でなんとか立ち直り、お陰様でぼちぼち忙しくさせてもらっている矢先でのメニエール病再発。
病院のベッドで点滴を打ちながら薄ぼんやり考えてたのは、この再発は去年のあの衝撃を忘るべからずという、天の啓示なんだと思った。
忘れかけていた自分を戒めるために喝を入れられたのだと思ったのである。
苦しいどころか実に有り難い発作だと思った。
医学的にどうこうという話ではない。
生き方の問題である。
苦しい状況や不遇な状況に陥ったとき、どのように考えるかでその先の道の開け方は大きく変わる。
難病で苦しいからと悩んでいても何も始まらない。
もしかしたらこの病気にも何か意義があるのじゃないだろうかと考える。
少なくとも俺はそう。
ノー天気なプラス思考は単なるアホだが、悲観に暮れて何も生み出さないマイナス思考はもっとアホである。
人生山あり谷ありは常だが山で浮かれず、谷で沈まずが俺の生き方の信条だ。
元々人生なんてもんは不平等に出来ている。
生まれながらにして財閥の御曹司と、親に捨てられたみなしごが同じ運のはずはない。
福沢諭吉は大きな間違いを犯した。
天は人の上に人を作り、人の下に人を作るのである。
真理であろう。
しかしだ、みなしごが絶対に成功しないかといえばそんなことは決してない。
親はなくとも成功している人など世の中五万といる。
不利な状況を打開出来るかどうかは結局おのれの信念と能力だ。
無能な猿には難しい話かもしれんが。