今だけを
- 2021/03/10
- 13:10
震災が起こる1年前、俺は逮捕された。このへんはもう何度も書いているためイチイチ書きもしないが、逮捕が違法フーゾクから足を洗う切っ掛けになったのは事実であるにしても、それは違法フーゾクを続けていればいつかは起きる「必要経費」であるから特にどうということはなく、逮捕前と逮捕後の自分自身の価値観は三つ子の魂百までよろしく特に変わったものはなかった。検事や裁判官の前ではひたすら反省しているポーズを示したが、根っこの部分ではまったく悪いことをしたと思っていないため、性根が変わるようなことはなかった。
それから1年後の東日本大震災、ここから新たな人生が始まった気がする。
震災から暫くが経ち、昼飯を食べようとたまたま立ち寄った蕎麦屋の本棚に置いてあった横山光輝の漫画三国志の1巻を読んでみると、これが非常に面白く、今まで三国志という名前はもちろん知っていたが具体的にどういう話かは知らず、また特に知りたいとも思わなかったが無性に続きを読みたくなり、その蕎麦屋には30巻あるうちの1巻しかなかったため、どこかに三国志が置いてないかと探してみると当時住んでいたアパートのすぐ裏にある図書館に全巻揃っているのを見つけた。
一応、高校の授業では世界史を選択したが、年代順に淡々と進んでいく日本史と違い世界史は時代が先に進んだと思えば、また戻ったりする、さらにはローマ帝国を学んでいたかと思えば今度は突然オスマン帝国になったりする、この縦横無尽に時代や国を行き来することについていけず、自分で選択しておきながら学ぶことを放棄、最終的には赤点だけ取らなきゃいいやぐらいの軽い気持ちで授業を受けていたため殆どなにも覚えていない。当然、中国史については春秋戦国時代がどうのということを世界史の教師が言っていたぐらいのことしか記憶にない。
看過されやすいアホな性格といったらそれまでだが、図書館で借りてきた三国志に俺は大いに触発され、何度も何度も読み返した。
震災で荒廃した東日本と度重なる争乱と蝗害(こうがい、バッタによる食害)によって運命を翻弄される中国の人々、それが妙に震災当時の時代とシンクロするような気がして三国志にハマった。人によって解釈は様々だが俺は思うに、結局三国志とは前半部分が曹操について、後半部分は諸葛孔明についての物語であると思っている。その曹操も孔明も抗えない時代の流れに翻弄され、激しい時代の中で最善を尽くしている。当然最善を尽くすが過酷な自然環境であったり、はたまた勝ち目のない強大な敵であったりと、自分の力だけでは如何ともし難い艱難辛苦に何度も遭遇する。
一見すると三国志の時代である1800年前と今とでは比較のしようがないように思えるがよくよく読んでみると、人間の営みの本質は今も昔も変わらなかったりする。曹操にしても、孔明にしても、5年後、10年後、そして自分の死後について常に熟慮に熟慮を重ねていたはずだが、別の側面では考えたところでどうにもならないということを分かっていたと思う。先を見据えることの重要性は認識しつつも抗えない時代の渦みたいなものにはどんな権力者であっても抗する手立てがなく、最善を尽くして後は天命を待つしかない。事実、曹操も孔明も道半ばで病を患い命を落としている。おのが死を覚悟し、死後のことを当然考えたはずであろうが、いくら思いの丈を後進に伝えたところでそれが成就するかどうかはもはや自分の力の及ぶところではない、それは二人とも重々承知していたはずである。
人は唯一、先のことを考えて行動する生き物だと思う。
恐らく、5年後、10年後を考えて行動する動物って地球上には人間以外存在しないと思う。
だからこそ、人は先々のことを考えて学んだり、働いたり、或いは結婚をしたりするのだと思うが、三国志を読んで以来、どうせ世の中は無常であり、先のことを考えたところでどうなるものではない、事実、東日本大震災が起きるとは誰一人として予見できなかった、また、コロナ禍によって世界中がパニックに陥ると誰か一人でも数年前から予見していましたか、いないだろう、それであればまず今を生きる、そのうえでせいぜい考えるのは1年先ぐらいまででいいと思うようになった。
これはなにも投げやりに生きるという意味ではない。今を必死に生きることの積み重ねが未来に繋がるということ。
もちろん、甘いという人もいるでしょうし、そんな無計画じゃいずれ破綻するという人もいるでしょう、否定はしない。でも、いくら先のことを考えたところで俺程度の脳みその出来では結局は考えるだけ無駄、ならとりあえず目先のことを考えればいいと思うのだ。当然、同意を得ようとは思っていない。あくまでも俺はそういうふうに考えるようになったという話。
それから1年後の東日本大震災、ここから新たな人生が始まった気がする。
震災から暫くが経ち、昼飯を食べようとたまたま立ち寄った蕎麦屋の本棚に置いてあった横山光輝の漫画三国志の1巻を読んでみると、これが非常に面白く、今まで三国志という名前はもちろん知っていたが具体的にどういう話かは知らず、また特に知りたいとも思わなかったが無性に続きを読みたくなり、その蕎麦屋には30巻あるうちの1巻しかなかったため、どこかに三国志が置いてないかと探してみると当時住んでいたアパートのすぐ裏にある図書館に全巻揃っているのを見つけた。
一応、高校の授業では世界史を選択したが、年代順に淡々と進んでいく日本史と違い世界史は時代が先に進んだと思えば、また戻ったりする、さらにはローマ帝国を学んでいたかと思えば今度は突然オスマン帝国になったりする、この縦横無尽に時代や国を行き来することについていけず、自分で選択しておきながら学ぶことを放棄、最終的には赤点だけ取らなきゃいいやぐらいの軽い気持ちで授業を受けていたため殆どなにも覚えていない。当然、中国史については春秋戦国時代がどうのということを世界史の教師が言っていたぐらいのことしか記憶にない。
看過されやすいアホな性格といったらそれまでだが、図書館で借りてきた三国志に俺は大いに触発され、何度も何度も読み返した。
震災で荒廃した東日本と度重なる争乱と蝗害(こうがい、バッタによる食害)によって運命を翻弄される中国の人々、それが妙に震災当時の時代とシンクロするような気がして三国志にハマった。人によって解釈は様々だが俺は思うに、結局三国志とは前半部分が曹操について、後半部分は諸葛孔明についての物語であると思っている。その曹操も孔明も抗えない時代の流れに翻弄され、激しい時代の中で最善を尽くしている。当然最善を尽くすが過酷な自然環境であったり、はたまた勝ち目のない強大な敵であったりと、自分の力だけでは如何ともし難い艱難辛苦に何度も遭遇する。
一見すると三国志の時代である1800年前と今とでは比較のしようがないように思えるがよくよく読んでみると、人間の営みの本質は今も昔も変わらなかったりする。曹操にしても、孔明にしても、5年後、10年後、そして自分の死後について常に熟慮に熟慮を重ねていたはずだが、別の側面では考えたところでどうにもならないということを分かっていたと思う。先を見据えることの重要性は認識しつつも抗えない時代の渦みたいなものにはどんな権力者であっても抗する手立てがなく、最善を尽くして後は天命を待つしかない。事実、曹操も孔明も道半ばで病を患い命を落としている。おのが死を覚悟し、死後のことを当然考えたはずであろうが、いくら思いの丈を後進に伝えたところでそれが成就するかどうかはもはや自分の力の及ぶところではない、それは二人とも重々承知していたはずである。
人は唯一、先のことを考えて行動する生き物だと思う。
恐らく、5年後、10年後を考えて行動する動物って地球上には人間以外存在しないと思う。
だからこそ、人は先々のことを考えて学んだり、働いたり、或いは結婚をしたりするのだと思うが、三国志を読んで以来、どうせ世の中は無常であり、先のことを考えたところでどうなるものではない、事実、東日本大震災が起きるとは誰一人として予見できなかった、また、コロナ禍によって世界中がパニックに陥ると誰か一人でも数年前から予見していましたか、いないだろう、それであればまず今を生きる、そのうえでせいぜい考えるのは1年先ぐらいまででいいと思うようになった。
これはなにも投げやりに生きるという意味ではない。今を必死に生きることの積み重ねが未来に繋がるということ。
もちろん、甘いという人もいるでしょうし、そんな無計画じゃいずれ破綻するという人もいるでしょう、否定はしない。でも、いくら先のことを考えたところで俺程度の脳みその出来では結局は考えるだけ無駄、ならとりあえず目先のことを考えればいいと思うのだ。当然、同意を得ようとは思っていない。あくまでも俺はそういうふうに考えるようになったという話。