論語と算盤と孫子の兵法
- 2021/02/15
- 12:22
昨日始まった大河ドラマ「青天を衝け」はまだ一話しか見ていないがいい感じ、これから毎週日曜の夜が楽しみだ。
主人公の渋沢栄一に関しては水戸徳川家ともゆかりのある人物ゆえ、彼のことが書かれた本は数冊読んでいる。
ただ、近代日本資本主義の父と呼ばれる渋沢だが、大河ドラマや彼の自伝を読んで、渋沢栄一をビジネスのロールモデルにするのはちょっと危険だと思う。渋沢といえば当然、「論語と算盤(そろばん)」、算盤、要は数学的な考え方、商売人として数字は避けて通れないから数字に強くあるべき、これはどんなにOA化が進んでも不変の法則というか、常識である、しかし、渋沢の提唱する論語に関しては正直額面通りには受け取れず、懐疑的に見ている。
論語とは端的に言うと、清く正しく生きなさいということ。渋沢は商売人が儲けるのは正しいこと、だから目一杯儲けなさい、そのうえで、利潤は正しい行いをしたうえでなくてはならないというのが一貫した姿勢であり、決して汚い手を使ってはいけないと戒めている。
俺は少し違う。
法律を犯さなければ別に汚いことをしても構わないというのが俺の考え方。
渋沢栄一の活躍した明治、大正、昭和初期というのはとにかく物を作れば売れたという時代。そりゃあそうだろう、コメと生糸しかない貧しい国から脱却しようと、明治維新が起こり、欧米に追い付け追い越せという時代だ、加えて日清日露の戦争があって軍需物資が必要となる、物凄く恵まれていた時代だ。
例えばSTAP細胞はありま~すでお馴染みの理化学研究所、その理研は渋沢栄一が創設したのだが、設立には政府と皇室からの補助金がベースとなっている。大企業を作ろうと思えば当時は金をいくらでも引っ張れたのである。もちろん、渋沢栄一の知性と胆力があったからこそというのは事実だが、殖産興業という政府の思惑と起業家との思惑が合致したからこそ成し得たというのも一つの真実だ。
つまり時代柄、論語と算盤などと、割と呑気なことを言ってても金はじゃぶじゃぶ国から落ちてきたのである。
じゃあ今はというと、物があふれている、ないのはバカを治す薬ぐらいであとは殆どすべてといっていいぐらい物が溢れている、こういう時代で論語をベースとした商売論を語ったところで、生き馬の目を抜く今の時代に勝ち抜くのはちょっと難しいというか、無理なんじゃないのと思ってしまう。清く正しく生きるのは結構であるし、少なくとも私生活に於いてはそうあるべきだと思うが、商売は負けたらそれでお仕舞い、退場なのだ、その点、同じ中国の歴史書であっても、「孫子」は対照的。
孫子には勝つための方法論であったり、気構えが書いてある。早い話が負けたら元も子もない、勝てば官軍という考え方。こちらの方がよっぽど理にかなっているし、現実的だろう。法律を犯さないというのがまずは大原則であるが、それ以外は多少荒っぽい手法を用いたとしても勝つことを優先させるべき(孫子に於いては法律すら蚊帳の外、騙し討ちでもとにかく勝てばいいという考え方)。
事実、ソフトバンクの孫正義会長やマイクロソフト社のビルゲイツも孫子を愛読しているという。その辺に正解があるような気がしますが。
主人公の渋沢栄一に関しては水戸徳川家ともゆかりのある人物ゆえ、彼のことが書かれた本は数冊読んでいる。
ただ、近代日本資本主義の父と呼ばれる渋沢だが、大河ドラマや彼の自伝を読んで、渋沢栄一をビジネスのロールモデルにするのはちょっと危険だと思う。渋沢といえば当然、「論語と算盤(そろばん)」、算盤、要は数学的な考え方、商売人として数字は避けて通れないから数字に強くあるべき、これはどんなにOA化が進んでも不変の法則というか、常識である、しかし、渋沢の提唱する論語に関しては正直額面通りには受け取れず、懐疑的に見ている。
論語とは端的に言うと、清く正しく生きなさいということ。渋沢は商売人が儲けるのは正しいこと、だから目一杯儲けなさい、そのうえで、利潤は正しい行いをしたうえでなくてはならないというのが一貫した姿勢であり、決して汚い手を使ってはいけないと戒めている。
俺は少し違う。
法律を犯さなければ別に汚いことをしても構わないというのが俺の考え方。
渋沢栄一の活躍した明治、大正、昭和初期というのはとにかく物を作れば売れたという時代。そりゃあそうだろう、コメと生糸しかない貧しい国から脱却しようと、明治維新が起こり、欧米に追い付け追い越せという時代だ、加えて日清日露の戦争があって軍需物資が必要となる、物凄く恵まれていた時代だ。
例えばSTAP細胞はありま~すでお馴染みの理化学研究所、その理研は渋沢栄一が創設したのだが、設立には政府と皇室からの補助金がベースとなっている。大企業を作ろうと思えば当時は金をいくらでも引っ張れたのである。もちろん、渋沢栄一の知性と胆力があったからこそというのは事実だが、殖産興業という政府の思惑と起業家との思惑が合致したからこそ成し得たというのも一つの真実だ。
つまり時代柄、論語と算盤などと、割と呑気なことを言ってても金はじゃぶじゃぶ国から落ちてきたのである。
じゃあ今はというと、物があふれている、ないのはバカを治す薬ぐらいであとは殆どすべてといっていいぐらい物が溢れている、こういう時代で論語をベースとした商売論を語ったところで、生き馬の目を抜く今の時代に勝ち抜くのはちょっと難しいというか、無理なんじゃないのと思ってしまう。清く正しく生きるのは結構であるし、少なくとも私生活に於いてはそうあるべきだと思うが、商売は負けたらそれでお仕舞い、退場なのだ、その点、同じ中国の歴史書であっても、「孫子」は対照的。
孫子には勝つための方法論であったり、気構えが書いてある。早い話が負けたら元も子もない、勝てば官軍という考え方。こちらの方がよっぽど理にかなっているし、現実的だろう。法律を犯さないというのがまずは大原則であるが、それ以外は多少荒っぽい手法を用いたとしても勝つことを優先させるべき(孫子に於いては法律すら蚊帳の外、騙し討ちでもとにかく勝てばいいという考え方)。
事実、ソフトバンクの孫正義会長やマイクロソフト社のビルゲイツも孫子を愛読しているという。その辺に正解があるような気がしますが。