今更意図的だったのか偶発的だったのか議論しても・・・
- 2016/12/31
- 15:26
『九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が発見した2通の電報記録。外務省が在米日本大使館に発信したもので、これらが「訂正電報」とすれば、急を要するはずの対米覚書の訂正を、外務省は半日以上遅らせていたことになる。
その理由を三輪教授は「陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されぬよう、わざと遅らせ、外務省も協力した可能性が高い」とみる。着目したのは、いくつかの他の電報の存在だ。
米東部時間で1941年12月6日午前9時54分、米国人タイピストの使用禁止を指示。14部の発信から約2時間後の7日午前4時18分、大使館に初めて、米政府に「(7日)午後1時に通告」するよう指示している。外務省は事前に、対米覚書が開戦通告という極めて重大な文書であることを大使館に伝えていなかった。
同午前4時44分には、電報を解読するための暗号機3台のうち、2台の破棄を命令した。開戦後の米政府による押収を恐れた措置とされる。
元ニュージーランド大使の井口武夫氏が、大使館の電信担当官の吉田寿一氏にこの時の状況について聞いている。吉田氏は7日午前9時ごろから、未明に届いた電報解読に取り掛かった。「終わりの方になって『午後1時にハル長官に…手交せよ』というのがあった。急いで14部の解読に当たった」と証言している。
三輪教授は、米軍が電報を傍受していたことを旧日本陸軍が極度に警戒し、開戦ぎりぎりか、遅れて通告しても構わないと考えていたとみている。
175字もの訂正電報を7日の午前0時20分、同1時32分に送ったのも、こうした推論を裏付ける。「大使館の作業を遅らせる意図があったとしか考えられない。陸軍、外務省は大使館をも欺いていた」』
(西日本新聞)
真珠湾攻撃時の宣戦布告の遅れが意図的なものであったのか、はたまた偶発的なものであるのか、未だ議論は尽きぬところでありますが個人的には大国に奇襲を掛ける以上、呑気に宣戦を布告する必要はないと思っている。
日本史上、もっともエポックメーキングな戦いは桶狭間の戦いであろう。今川勢2万5千に対し、信長の手勢は2千、まともに対峙したら到底敵わない。どうするか?奇襲しかないではないか。信長を称賛しても非難するいわれはどこにもない。
真珠湾攻撃時、指揮官である山本五十六は大本営に対し、予め前以て必ず宣戦布告をしてください、武士は寝床を襲うときも、侍は枕を蹴って叩き起こし、その上で敵を斬る、決して寝ているところを突き刺すような真似はしないと力説したというのだ。意図的なのか、偶発的なのか、事実はどうであれ、結果的に宣戦布告が事後報告になってしまったことを知り、山本は愕然とし、激昂したという。
山本五十六という一人の人間に関しては自分自身、何度も霞ヶ浦航空隊跡地を訪問するほど、尊敬してやまない人物なのであるが、アメリカ相手にそんな悠長なことを言っていられないではないか、戦争とは綺麗ごとではない。殊、真珠湾攻撃に関しては大本営側が正しい。
有名な孫子の兵法は「兵は国の大事にして存亡の道、察せざるべからざるなり」から始まる。
現代語に訳すと、戦争とは国を左右する一大事であるということだ。
ここで一旦真珠湾攻撃を離れ、新選組の話をする。
周知の通り、新選組の芹沢鴨は深酒をして寝入っているところを襲われ絶命した。芹沢は神道無念流免許皆伝の腕前、腕利きの沖田総司や土方歳三らをしてもまともに斬りあったら返り討ちに合う恐れがある。そこで土方は酒宴を催し、泥酔して酔いつぶれた芹沢を討ち果たそうと画策したのであるが、これに猛烈に反対をしたのが沖田である。沖田は武士である以上、そんな汚い真似は出来かねるとかたくなに寝込みでの襲撃を固辞したというが、最終的には兄貴分である土方の説得に折れ、結局は芹沢粛正に加わった。それでもやっぱりというか、いかにも実直な人柄で知られる沖田らしいと言えるのだが沖田は寝込んでいる芹沢の枕を蹴って起こしたというのである。彼の侍としての矜持がそうさせたのであろうが(土方は元々農民の出だが、沖田は武家の出身)、これは潔い反面、非常に危うい。
結果的に、芹沢を討ち果たすことが出来、事なきを得たが一歩間違うと新選組存亡の危機である。組織として考えた時、孫子であれば枕を蹴って起こすようなことはしないであろう。もっとも、そういう可能性のある沖田を初めから列に加えるべきではないという問題でもあるのだが・・・。
話を戻す、真珠湾攻撃も同様、もし孫子がいれば奇襲を掛けていたはずだ。わざわざご丁寧に宣戦を布告したりはしないでしょう。日本国民の命が掛かっているのだ。国民の命の前には武士のプライドなどちんけ過ぎて塵に等しい。
まともに戦ったらいくら空母がいなかったとはいえ、日本も相当なダメージを負う。成功するどころか、再起不能なほど叩きのめされた可能性も否定できない。
俺自身、そのあたりはドライなのだ。汚い真似をしてでも勝たなくてはならない場面って世の中にはたくさんある。戦争とはスポーツじゃないのだ。そういう道を歩んできてしまったというのも大きいが、相手を叩きのめすのであれば必ずしも正々堂々と戦う必要はないと思っている。確かにメンツを重んじ、正攻法で行かなくてはならない場面もあるでしょうが、死んでしまったら(企業でいえば倒産や破産)、すべてがジエンドだ。誰も助けてくれないのである。誤解を恐れずに言えば法律を犯しても見つからなければそれは罪じゃない。勝てば官軍、負ければ賊軍なのだ。
俺からすると、何を今更、奇襲が偶発だったのか意図的だったのかと議論しているのだろうと正直訝しく思うのである。
その理由を三輪教授は「陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されぬよう、わざと遅らせ、外務省も協力した可能性が高い」とみる。着目したのは、いくつかの他の電報の存在だ。
米東部時間で1941年12月6日午前9時54分、米国人タイピストの使用禁止を指示。14部の発信から約2時間後の7日午前4時18分、大使館に初めて、米政府に「(7日)午後1時に通告」するよう指示している。外務省は事前に、対米覚書が開戦通告という極めて重大な文書であることを大使館に伝えていなかった。
同午前4時44分には、電報を解読するための暗号機3台のうち、2台の破棄を命令した。開戦後の米政府による押収を恐れた措置とされる。
元ニュージーランド大使の井口武夫氏が、大使館の電信担当官の吉田寿一氏にこの時の状況について聞いている。吉田氏は7日午前9時ごろから、未明に届いた電報解読に取り掛かった。「終わりの方になって『午後1時にハル長官に…手交せよ』というのがあった。急いで14部の解読に当たった」と証言している。
三輪教授は、米軍が電報を傍受していたことを旧日本陸軍が極度に警戒し、開戦ぎりぎりか、遅れて通告しても構わないと考えていたとみている。
175字もの訂正電報を7日の午前0時20分、同1時32分に送ったのも、こうした推論を裏付ける。「大使館の作業を遅らせる意図があったとしか考えられない。陸軍、外務省は大使館をも欺いていた」』
(西日本新聞)
真珠湾攻撃時の宣戦布告の遅れが意図的なものであったのか、はたまた偶発的なものであるのか、未だ議論は尽きぬところでありますが個人的には大国に奇襲を掛ける以上、呑気に宣戦を布告する必要はないと思っている。
日本史上、もっともエポックメーキングな戦いは桶狭間の戦いであろう。今川勢2万5千に対し、信長の手勢は2千、まともに対峙したら到底敵わない。どうするか?奇襲しかないではないか。信長を称賛しても非難するいわれはどこにもない。
真珠湾攻撃時、指揮官である山本五十六は大本営に対し、予め前以て必ず宣戦布告をしてください、武士は寝床を襲うときも、侍は枕を蹴って叩き起こし、その上で敵を斬る、決して寝ているところを突き刺すような真似はしないと力説したというのだ。意図的なのか、偶発的なのか、事実はどうであれ、結果的に宣戦布告が事後報告になってしまったことを知り、山本は愕然とし、激昂したという。
山本五十六という一人の人間に関しては自分自身、何度も霞ヶ浦航空隊跡地を訪問するほど、尊敬してやまない人物なのであるが、アメリカ相手にそんな悠長なことを言っていられないではないか、戦争とは綺麗ごとではない。殊、真珠湾攻撃に関しては大本営側が正しい。
有名な孫子の兵法は「兵は国の大事にして存亡の道、察せざるべからざるなり」から始まる。
現代語に訳すと、戦争とは国を左右する一大事であるということだ。
ここで一旦真珠湾攻撃を離れ、新選組の話をする。
周知の通り、新選組の芹沢鴨は深酒をして寝入っているところを襲われ絶命した。芹沢は神道無念流免許皆伝の腕前、腕利きの沖田総司や土方歳三らをしてもまともに斬りあったら返り討ちに合う恐れがある。そこで土方は酒宴を催し、泥酔して酔いつぶれた芹沢を討ち果たそうと画策したのであるが、これに猛烈に反対をしたのが沖田である。沖田は武士である以上、そんな汚い真似は出来かねるとかたくなに寝込みでの襲撃を固辞したというが、最終的には兄貴分である土方の説得に折れ、結局は芹沢粛正に加わった。それでもやっぱりというか、いかにも実直な人柄で知られる沖田らしいと言えるのだが沖田は寝込んでいる芹沢の枕を蹴って起こしたというのである。彼の侍としての矜持がそうさせたのであろうが(土方は元々農民の出だが、沖田は武家の出身)、これは潔い反面、非常に危うい。
結果的に、芹沢を討ち果たすことが出来、事なきを得たが一歩間違うと新選組存亡の危機である。組織として考えた時、孫子であれば枕を蹴って起こすようなことはしないであろう。もっとも、そういう可能性のある沖田を初めから列に加えるべきではないという問題でもあるのだが・・・。
話を戻す、真珠湾攻撃も同様、もし孫子がいれば奇襲を掛けていたはずだ。わざわざご丁寧に宣戦を布告したりはしないでしょう。日本国民の命が掛かっているのだ。国民の命の前には武士のプライドなどちんけ過ぎて塵に等しい。
まともに戦ったらいくら空母がいなかったとはいえ、日本も相当なダメージを負う。成功するどころか、再起不能なほど叩きのめされた可能性も否定できない。
俺自身、そのあたりはドライなのだ。汚い真似をしてでも勝たなくてはならない場面って世の中にはたくさんある。戦争とはスポーツじゃないのだ。そういう道を歩んできてしまったというのも大きいが、相手を叩きのめすのであれば必ずしも正々堂々と戦う必要はないと思っている。確かにメンツを重んじ、正攻法で行かなくてはならない場面もあるでしょうが、死んでしまったら(企業でいえば倒産や破産)、すべてがジエンドだ。誰も助けてくれないのである。誤解を恐れずに言えば法律を犯しても見つからなければそれは罪じゃない。勝てば官軍、負ければ賊軍なのだ。
俺からすると、何を今更、奇襲が偶発だったのか意図的だったのかと議論しているのだろうと正直訝しく思うのである。