小保方さんとK 君
- 2014/08/29
- 23:05
『夏休みもまもなく終わりを迎える。この時期になると、毎年のように世間を賑わす宿題代行業について、尾木ママの愛称で知られる教育評論家の尾木直樹氏(67)が27日、自身のブログで「一種の いや れっきとした詐欺罪です!!」と辛らつなコメントを寄せた。』
おふくろは中学高校時代いつもトップの成績であり、出来ることなら薬剤師になりたかったという程の才女である。爺さんの女が大学に行くなんぞけしからんという鶴の一声で結局就職をしてしまったのだが勉強はよく出来たと思う。余談だが親父がおふくろを見初めたのもルックスや性格じゃなく頭の良さ、美人も三日見れば飽きるが脳みその良さばかりは如何ともしがたい、おふくろなら自分(親父)の頭の悪さをカバーしてくれるだろうと思いプロポーズをしたらしい。
おふくろは俺が高次方程式の解法や指数関数が分からず悩んでいるとスラスラと教えることが出来たのだからたいしたもんである。今、俺が中高生に何か勉強を教えられるかといえば教えられるのはせいぜいいいパンチの打ち方ぐらいだ。
そんなおふくろであるが絶対に宿題を代わりにやって仕上げてしまうということはしなかった。8月の28日辺りになり、俺が青い顔していてもそ知らぬふりである。
「夏休み中、宿題をやらず遊び惚けていたお前が悪い。お母さんは何度も宿題は済んだのかといった。だから助けない。先生に叱られなさい」
非の打ち所のない正論である。
久慈川で鮎を密漁したり、人んちの畑のスイカを掻っ払ったりしていた俺が悪いのだ(法的にも)。
当時の担任は物凄く厳しい人であり、宿題をやっていかないと居残りをさせられ、元々ある宿題の倍以上も漢字の書き取りやら計算ドリルやらをやらさせるのであった。
9月1日の始業式は毎年のことながら暗澹たる気持ちで登校したものである。
さて、ここまでは俺の話だ。本日の主人公は俺ではなく同級生のK君だ。K君は絵を描くのが苦手な少年であった。小学6年生なのにも関わらず、描く絵といえば幼稚園児が酔っ払って描いたようなそれはそれは実にお粗末な絵。
でも絵の上手い下手はバカにする話じゃない。美術や音楽、運動神経などは努力でどうこうとなるものではなく、むしろ先天的な資質によるところの方が遥かに大きい。
そこはアホな小学生であった俺でも理解しており、別にK君の絵の下手さを笑ったりしたことはなかっ・・・、いや、ごめんあったかと思う(笑)。
とにかく彼の下手さは紛れもなくクラス随一なのである。
なのにだ、夏休みの課題で提出した彼の絵の上手さはただ、ただ圧倒されるばかり。ちなみに俺はアホであるが絵だけは上手かった。事実、市展、県展の常連である。その俺が描いた絵が子供騙しに見える程彼の絵は素晴らしい完成度なのだ。彼の絵がゴッホなら俺の絵はせいぜい公衆便所のオメコマーク、そもそもの次元が違うのである。
始めに述べた通り、我が家では一切宿題の手伝いをしないので俺の提出した絵は天地神明に誓って俺が描いた絵である。
しかし、野郎の絵は明らかに親、若しくは別の第三者が描いた絵だ。たとえて言うならろくにキャッチボールも出来なかったような奴が中40日で150キロの豪速球を投げられるようになっているという話だ。可能性はゼロじゃないがそんなことは限りなくゼロに近い。ちびっ子少年野球にも出れない奴がわずか40日でダルビッシュに進化ってどんな奇跡だよ、チョンボだよと思うわけです。
しかも問題は続く。当然圧倒的な出来栄えの絵であるから評価は文句なしの金賞。その結果、彼は全校を代表して表彰され、校長から賞状と副賞の文房具セットを受け取ったのである。
小学校と言うものは性善説で成り立っており、悪い子は存在しないというのが建前だ。本人が自分で描いたという以上、あくまでも本人の作品なのである。無論担任の教師自身もイカサマをやったことぐらい普段の彼の能力を見ていれば分かっていたはずである。だけど、悪い子はいないという建前があるため、絵が圧倒的に上手ならば彼の絵を選ぶしかないじゃない。今考えるとつらい立場だよな。ここでK君の絵を選ばず、例えば俺の絵を選んだらそれこそ公正教育の論理が破綻する。順番通りに選ぶから公正公平の原理が保てるのであり、作為的に選んでしまったら先生たちの思惑だけで決まってしまうということになる。そんなものは公平公正の原則とはかけ離れた独り善がりのオナニー教育でしかない。
だが当時の俺にはそこまで頭が回らなかった。ガキな俺は猛烈に抗議をした。先生だってこいつがズルをしたことぐらい分かっているはずだ、明らかに俺やN君、J子ちゃんの方が普段上手いじゃないか、それが何で金賞なんだよ、納得いかねぇよと。
「K君は自分で描いたと言っているのだからそれがすべてです」
アホなくせに機転だけはよく利く俺は言いました、じゃあ今から同じ絵を描いてみろと、目の前で描かれりゃ納得するぞと。
K君は夏休み中は描けたが今は描けないの一点張り、そう、小保方晴子女史のSTAP細胞とまるっきり同じなのだ。研究室では200回以上成功した、じゃあやってみろと言うと出来ない、こんな理不尽な話ねぇだろう。
俺はね、別に金賞を貰えなかったのが悔しいわけじゃない。自分が本当にこりゃ負けたわと思える相手ならば喜んで受賞を称える。当時絵の上手さを張り合っていたN君やJ子ちゃんには負けたくはないと思いつつも、子供心ながら彼らには敬意を払い、絵の上手さを認めていた。
やっぱりというか抗議は認められなかった。今だったらもしかして違うのかもしれないが当時は教師が絶対である。教師が言うことは正しいのだ。
結局、金賞受賞は覆らず、釈然としないまま、普段どおりの日常が始まり、また、K君は相も変わらず下手な絵を描き続けているのであった。
確か収まり付かなかった俺は最終的にK君を便所でボコボコにしてしまったと思う。
冒頭に戻る。こんなふうに傷害事件にまで発展することもあるので宿題代行サービスなど利用せず、ちびっ子のみんなは自力で宿題を仕上げましょうよと。
おふくろは中学高校時代いつもトップの成績であり、出来ることなら薬剤師になりたかったという程の才女である。爺さんの女が大学に行くなんぞけしからんという鶴の一声で結局就職をしてしまったのだが勉強はよく出来たと思う。余談だが親父がおふくろを見初めたのもルックスや性格じゃなく頭の良さ、美人も三日見れば飽きるが脳みその良さばかりは如何ともしがたい、おふくろなら自分(親父)の頭の悪さをカバーしてくれるだろうと思いプロポーズをしたらしい。
おふくろは俺が高次方程式の解法や指数関数が分からず悩んでいるとスラスラと教えることが出来たのだからたいしたもんである。今、俺が中高生に何か勉強を教えられるかといえば教えられるのはせいぜいいいパンチの打ち方ぐらいだ。
そんなおふくろであるが絶対に宿題を代わりにやって仕上げてしまうということはしなかった。8月の28日辺りになり、俺が青い顔していてもそ知らぬふりである。
「夏休み中、宿題をやらず遊び惚けていたお前が悪い。お母さんは何度も宿題は済んだのかといった。だから助けない。先生に叱られなさい」
非の打ち所のない正論である。
久慈川で鮎を密漁したり、人んちの畑のスイカを掻っ払ったりしていた俺が悪いのだ(法的にも)。
当時の担任は物凄く厳しい人であり、宿題をやっていかないと居残りをさせられ、元々ある宿題の倍以上も漢字の書き取りやら計算ドリルやらをやらさせるのであった。
9月1日の始業式は毎年のことながら暗澹たる気持ちで登校したものである。
さて、ここまでは俺の話だ。本日の主人公は俺ではなく同級生のK君だ。K君は絵を描くのが苦手な少年であった。小学6年生なのにも関わらず、描く絵といえば幼稚園児が酔っ払って描いたようなそれはそれは実にお粗末な絵。
でも絵の上手い下手はバカにする話じゃない。美術や音楽、運動神経などは努力でどうこうとなるものではなく、むしろ先天的な資質によるところの方が遥かに大きい。
そこはアホな小学生であった俺でも理解しており、別にK君の絵の下手さを笑ったりしたことはなかっ・・・、いや、ごめんあったかと思う(笑)。
とにかく彼の下手さは紛れもなくクラス随一なのである。
なのにだ、夏休みの課題で提出した彼の絵の上手さはただ、ただ圧倒されるばかり。ちなみに俺はアホであるが絵だけは上手かった。事実、市展、県展の常連である。その俺が描いた絵が子供騙しに見える程彼の絵は素晴らしい完成度なのだ。彼の絵がゴッホなら俺の絵はせいぜい公衆便所のオメコマーク、そもそもの次元が違うのである。
始めに述べた通り、我が家では一切宿題の手伝いをしないので俺の提出した絵は天地神明に誓って俺が描いた絵である。
しかし、野郎の絵は明らかに親、若しくは別の第三者が描いた絵だ。たとえて言うならろくにキャッチボールも出来なかったような奴が中40日で150キロの豪速球を投げられるようになっているという話だ。可能性はゼロじゃないがそんなことは限りなくゼロに近い。ちびっ子少年野球にも出れない奴がわずか40日でダルビッシュに進化ってどんな奇跡だよ、チョンボだよと思うわけです。
しかも問題は続く。当然圧倒的な出来栄えの絵であるから評価は文句なしの金賞。その結果、彼は全校を代表して表彰され、校長から賞状と副賞の文房具セットを受け取ったのである。
小学校と言うものは性善説で成り立っており、悪い子は存在しないというのが建前だ。本人が自分で描いたという以上、あくまでも本人の作品なのである。無論担任の教師自身もイカサマをやったことぐらい普段の彼の能力を見ていれば分かっていたはずである。だけど、悪い子はいないという建前があるため、絵が圧倒的に上手ならば彼の絵を選ぶしかないじゃない。今考えるとつらい立場だよな。ここでK君の絵を選ばず、例えば俺の絵を選んだらそれこそ公正教育の論理が破綻する。順番通りに選ぶから公正公平の原理が保てるのであり、作為的に選んでしまったら先生たちの思惑だけで決まってしまうということになる。そんなものは公平公正の原則とはかけ離れた独り善がりのオナニー教育でしかない。
だが当時の俺にはそこまで頭が回らなかった。ガキな俺は猛烈に抗議をした。先生だってこいつがズルをしたことぐらい分かっているはずだ、明らかに俺やN君、J子ちゃんの方が普段上手いじゃないか、それが何で金賞なんだよ、納得いかねぇよと。
「K君は自分で描いたと言っているのだからそれがすべてです」
アホなくせに機転だけはよく利く俺は言いました、じゃあ今から同じ絵を描いてみろと、目の前で描かれりゃ納得するぞと。
K君は夏休み中は描けたが今は描けないの一点張り、そう、小保方晴子女史のSTAP細胞とまるっきり同じなのだ。研究室では200回以上成功した、じゃあやってみろと言うと出来ない、こんな理不尽な話ねぇだろう。
俺はね、別に金賞を貰えなかったのが悔しいわけじゃない。自分が本当にこりゃ負けたわと思える相手ならば喜んで受賞を称える。当時絵の上手さを張り合っていたN君やJ子ちゃんには負けたくはないと思いつつも、子供心ながら彼らには敬意を払い、絵の上手さを認めていた。
やっぱりというか抗議は認められなかった。今だったらもしかして違うのかもしれないが当時は教師が絶対である。教師が言うことは正しいのだ。
結局、金賞受賞は覆らず、釈然としないまま、普段どおりの日常が始まり、また、K君は相も変わらず下手な絵を描き続けているのであった。
確か収まり付かなかった俺は最終的にK君を便所でボコボコにしてしまったと思う。
冒頭に戻る。こんなふうに傷害事件にまで発展することもあるので宿題代行サービスなど利用せず、ちびっ子のみんなは自力で宿題を仕上げましょうよと。