戦争と平和
- 2014/08/16
- 12:05
戦争と平和の議論は尽きないが青臭い理想論がやたらと多く聞いてて吐き気を催す。
世界中がフラットで戦争なんてない平和な世の中が一番なのは誰だってそう思うさ。でも現実には毎日どこかしらで銃弾が飛びかい、ムクロは荼毘に付される。同色の人種ですらいがみ合っている、ましてや人種が違い、拝む神様が違えば分かりあえるなんてことはありえない。人間が火を起こした瞬間から戦争は宿命づけれた原罪なのである。
相手を慮り、仲良くしましょうというのはたやすいが、日本中どこ行っても見掛ける『世界人類が平和でありますように』と書かれた謎の看板並みにくだらなくて呆れる。
世界は資本主義で成り立っている。これは動かしがたい事実。共産党支配の中国ですら経済は資本主義だ。資本主義とは突き詰めれば強者が弱者から搾取する言わば勝者が総取りの経済システムである。当然歪みが生じ、不平不満の種は尽きない。よって戦争の芽が摘まれることなど未来永劫ありえないのだ。
なんのかんの綺麗事をいったところで現実は変わらない。
日本が侵略のための戦争をするのは反対である。だが同盟国が苦慮に立たされている時、指を咥えて見ていることが平和主義として正しい姿なのか。友達が暴漢にやられてる、でも自分は博愛主義者だから喧嘩はしない、残念だけど見て見ぬふりをさせてもらう。これって友達として正しい姿なのか。
現実問題、中国の列強は目に余る。
日本と中国が戦争にならないのは早い話世界二位の海軍軍事力を誇る日本を怖いと中国が思っていてくれるからである。核戦争をすれば日本など木っ端微塵に破壊するなど造作もないがさすがにそれは中国国内はもちろん、世界的世論が許さない、だからといってオーソドックスな戦争では日本にかなわないから困ったという中国のジレンマが痛いほどよく分かる。
日本人の悪い癖だと思うのだが日本人って言葉を濁すでしょう。たとえば認知症、ボケ老人がいつしか痴呆症になり、今は認知症というじゃない、実態はボケ老人であってもボケは差別用語だからってね。本質は何も変わらないのに言葉遊びをしていったい何の意味があるのかと思ってしまう。その濁す言葉に自衛隊がある。警察予備隊から保安隊に名称が代わり、自衛隊にいきついた。こんなんただの言葉遊びやんけ。自衛隊だなんだといったところで誰がどう見ても自衛隊は軍隊なわけじゃない、災害救助だけが目的なら戦車も機関銃もいらない、必要なのは重機とスコップ。でも現実に即して考えた時、自衛隊は軍隊であり、だからこそ、交戦抑止になっているじゃんか。重機とスコップだけの国ならとっくに尖閣は占領されている。
ゆえに今更集団的自衛権の行使云々を語るのはかなり間抜けな話でね、自衛隊に入る人間は職業軍人なのだから敵の弾に当たって死ぬのは武士の本懐ぐらいに思って入隊すべきなのだ。息子を戦争に参加させるのは反対だと自衛隊員の親御さん達の一部が騒いでいるがだったらはじめから入隊なんかさせんなよ、アホ。戦地に赴く息子を水杯で讃えるのが軍人の親だ、履き違えんな。理解不能なバカが多くて泣けてくる。そのぐらいの強い意識もなく、給料がいい、安定している、資格がたくさん取れるといった下衆な考えで入隊する奴が多すぎる。国を護るための橋頭堡になるのが我が死命、そのためには血を流すことなど厭わないという、強い決意が必要なのだ。
結局国民で議論するといってもまあ原発の問題もそうだが軍隊の話は絶対に意見が真っ二つに割れてしまい落としどころなんて見つかりっこない。自我がまだ固まっていない十代ぐらいなら議論することによって変わることもあるだろうがある程度年いった奴らって人の意見を受け入れんでしょ。それこそ戦争にでも負けりゃ価値観もがらりと変わるだろうが平和な世の中じゃ絶対に変わらん。NHKの討論番組や朝まで生テレビが不毛なのは意見を戦わすだけ戦わせといてやっぱり折り合いはつかずで幕切れをしてしまうところ、右にしろ、左にしろ、相手の意見を受け入れることなんて出来やしないんだから議論をするだけ無駄じゃん。仮に理路整然と論破されたとしても主義主張は変わらず、論破された側は不貞腐れより次元の低い、あの野郎ぶっ殺してやる程度の感情論になるだけ、実にくだらん。
だから現実的に必要なのはごり押しでもいいからある程度表面上だけで議論をしたらもう無理矢理法律を整備してしまうこと。それしかない。
済し崩し的に決まってしまえば不請不承と言いつつも従うのが日本人、集団的自衛権の話はそうでもしないと収まりがつかない。
ま、言葉遊びが好きな国民を納得させるにはそうするしかないわな。よくも悪くもクーデター起こして世の中を引っ繰り返してやろうなんて生きのいい連中はおらんだろう、せいぜいツイッターの呼び掛けに応じて国会の前をうろつく、もはやデモとは呼べぬようなお寒いお祭り好きのクズ達に世の中を変えるなんて出来やしないんだからさ。
世界中がフラットで戦争なんてない平和な世の中が一番なのは誰だってそう思うさ。でも現実には毎日どこかしらで銃弾が飛びかい、ムクロは荼毘に付される。同色の人種ですらいがみ合っている、ましてや人種が違い、拝む神様が違えば分かりあえるなんてことはありえない。人間が火を起こした瞬間から戦争は宿命づけれた原罪なのである。
相手を慮り、仲良くしましょうというのはたやすいが、日本中どこ行っても見掛ける『世界人類が平和でありますように』と書かれた謎の看板並みにくだらなくて呆れる。
世界は資本主義で成り立っている。これは動かしがたい事実。共産党支配の中国ですら経済は資本主義だ。資本主義とは突き詰めれば強者が弱者から搾取する言わば勝者が総取りの経済システムである。当然歪みが生じ、不平不満の種は尽きない。よって戦争の芽が摘まれることなど未来永劫ありえないのだ。
なんのかんの綺麗事をいったところで現実は変わらない。
日本が侵略のための戦争をするのは反対である。だが同盟国が苦慮に立たされている時、指を咥えて見ていることが平和主義として正しい姿なのか。友達が暴漢にやられてる、でも自分は博愛主義者だから喧嘩はしない、残念だけど見て見ぬふりをさせてもらう。これって友達として正しい姿なのか。
現実問題、中国の列強は目に余る。
日本と中国が戦争にならないのは早い話世界二位の海軍軍事力を誇る日本を怖いと中国が思っていてくれるからである。核戦争をすれば日本など木っ端微塵に破壊するなど造作もないがさすがにそれは中国国内はもちろん、世界的世論が許さない、だからといってオーソドックスな戦争では日本にかなわないから困ったという中国のジレンマが痛いほどよく分かる。
日本人の悪い癖だと思うのだが日本人って言葉を濁すでしょう。たとえば認知症、ボケ老人がいつしか痴呆症になり、今は認知症というじゃない、実態はボケ老人であってもボケは差別用語だからってね。本質は何も変わらないのに言葉遊びをしていったい何の意味があるのかと思ってしまう。その濁す言葉に自衛隊がある。警察予備隊から保安隊に名称が代わり、自衛隊にいきついた。こんなんただの言葉遊びやんけ。自衛隊だなんだといったところで誰がどう見ても自衛隊は軍隊なわけじゃない、災害救助だけが目的なら戦車も機関銃もいらない、必要なのは重機とスコップ。でも現実に即して考えた時、自衛隊は軍隊であり、だからこそ、交戦抑止になっているじゃんか。重機とスコップだけの国ならとっくに尖閣は占領されている。
ゆえに今更集団的自衛権の行使云々を語るのはかなり間抜けな話でね、自衛隊に入る人間は職業軍人なのだから敵の弾に当たって死ぬのは武士の本懐ぐらいに思って入隊すべきなのだ。息子を戦争に参加させるのは反対だと自衛隊員の親御さん達の一部が騒いでいるがだったらはじめから入隊なんかさせんなよ、アホ。戦地に赴く息子を水杯で讃えるのが軍人の親だ、履き違えんな。理解不能なバカが多くて泣けてくる。そのぐらいの強い意識もなく、給料がいい、安定している、資格がたくさん取れるといった下衆な考えで入隊する奴が多すぎる。国を護るための橋頭堡になるのが我が死命、そのためには血を流すことなど厭わないという、強い決意が必要なのだ。
結局国民で議論するといってもまあ原発の問題もそうだが軍隊の話は絶対に意見が真っ二つに割れてしまい落としどころなんて見つかりっこない。自我がまだ固まっていない十代ぐらいなら議論することによって変わることもあるだろうがある程度年いった奴らって人の意見を受け入れんでしょ。それこそ戦争にでも負けりゃ価値観もがらりと変わるだろうが平和な世の中じゃ絶対に変わらん。NHKの討論番組や朝まで生テレビが不毛なのは意見を戦わすだけ戦わせといてやっぱり折り合いはつかずで幕切れをしてしまうところ、右にしろ、左にしろ、相手の意見を受け入れることなんて出来やしないんだから議論をするだけ無駄じゃん。仮に理路整然と論破されたとしても主義主張は変わらず、論破された側は不貞腐れより次元の低い、あの野郎ぶっ殺してやる程度の感情論になるだけ、実にくだらん。
だから現実的に必要なのはごり押しでもいいからある程度表面上だけで議論をしたらもう無理矢理法律を整備してしまうこと。それしかない。
済し崩し的に決まってしまえば不請不承と言いつつも従うのが日本人、集団的自衛権の話はそうでもしないと収まりがつかない。
ま、言葉遊びが好きな国民を納得させるにはそうするしかないわな。よくも悪くもクーデター起こして世の中を引っ繰り返してやろうなんて生きのいい連中はおらんだろう、せいぜいツイッターの呼び掛けに応じて国会の前をうろつく、もはやデモとは呼べぬようなお寒いお祭り好きのクズ達に世の中を変えるなんて出来やしないんだからさ。