突き刺される幼子、首はねられる絶世の美女…悪魔の如き秀吉残虐処刑
- 2014/02/02
- 23:36
文禄4(1595)年8月、豊臣秀吉のおいで関白の秀次が謀反の罪で切腹したのに続き、京都・三条河原で公開処刑されることになった秀次の一族39人。刑場をとり囲む多くの人たちから悲鳴が聞こえる中、子供5人が次々に突き刺されて果てていった。そして秀次の側室や秀次に仕えた上級女官らが処刑される番となった。
◆亡き子を抱いて
最初にひき出されたのが側室の一(いち)の台(だい)。一の台と秀吉とは因縁が深く、征夷大将軍になりたい秀吉が足利義昭と親子関係を結ぼうと画策するも、義昭の拒否にあって諦めかけていたときに関白就任を勧めたのが一の台の父、右大臣の今出川春季(はるすえ)だった。
当初は秀吉の側室になるはずだったが、一の台が拒んだために秀次が処刑されたのではと噂されるほどの絶世の美女だったという。
引導役となった大雲院の僧、貞安(ていあん)上人は「南無阿弥陀仏」を10回唱えると極楽に往生できるという十念の法を一の台に授けると、一の台は辞世の句を読み、首をはねられていった。享年34歳。
秀次の嫡男、仙千代丸の母の於和子(おわこ)は4番目に呼ばれた。上質の絹織物の上に経帷子(きょうかたびら)を羽織り、白綾の袴(はかま)姿で、水晶の数珠を手に持っていた。
天正6(1578)年生まれの於和子はまだ17歳という若さ。しかしながら39人中で仙千代丸が最初に処刑されると、すぐに遺体を抱きかかえ、「母もまもなく…」とじっと耐えながら数人を見送る。
そして自分の番。わが子を抱いたまま貞安上人の十念を受けると、わが子を離すことなく、切られていった。辞世の句は、
■後の世をかけしえにしをたのみにて あとしたひゆく死出の山道
仏をひとすらに信じてすがっていく於和子の心が伝わってくる。
◆会うこともなく
中には秀次の顔を見ることもなく、この場を迎えた女人もいた。11番目に処刑された出羽(今の山形)の大名・最上(もがみ)義光の三女、於伊万(おいま)(満)。駒姫とも呼ばれている。天正9(1581)年生まれ。
天正19年、秀次が東北に遠征中に姫を見そめ、側室として差し出すよう義光に迫ったものの、姫はまだ10歳。義光は「成長を待ってほしい」と説得してその場を収めた。
それから4年。東北一の美女と噂されるほどに成長した姫は約束通り秀次の側室として7月に上洛し、長旅の疲れを癒している最中に出くわしたのが、秀次の切腹事件だった。
父、義光の必死の助命嘆願を処刑の直前に聞いた秀吉の側室、淀君らの声もあり、これを無視できない秀吉は姫を鎌倉で尼にでもしようと、刑場に早馬を仕立てたが、あと一歩間に合わなかったという。
この理不尽な処刑に義光はしばし食事ものどを通らず、嘆き悲しむ日々を送った姫の母、大崎は姫の後を追うように亡くなっている。
■つみをきるみだのつるぎにかかる身の なにかいつつのさわりあるべき
阿弥陀仏にすっかり心を委ねていたのだろう。大名の娘らしく、処刑場で終始落ち着き払っていたという姫の辞世の句は姫のお気に入りだった衣装で表装され、今も生き続けている。
◆悪逆塚
刑場のまわりを埋め尽くした人たちは首が落ちる度に悲鳴をあげ、顔を背けた。遺体の引き渡しを願う公家もいたが許さず、切ってはあらかじめ用意しておいた大きな穴に遺体を次々と投げ込んでいった。
到底、高貴な人たちの埋葬とは思えない仕打ちに、周囲の人たちの憤りも増すばかりだった。
仙千代丸の処刑から約4時間。最後の於知保(おちぼ)の首がはねられたときには午後4時を過ぎていた。刑場のあちこちに付いた39人の血は暮れゆく西日で紅色に染まり、カラスの鳴き声が響き渡った。
39人の遺体が投げ込まれた穴はすぐに埋められると土と石を四角錐(すい)に盛った塚が築かれ、その上には秀次の首を収めた石櫃(ひつ)が乗った。
よほど「秀次=極悪非道人」を印象づけたかったのだろう。石櫃には秀次の切腹した7月15日の日付とともに「悪逆塚」の文字が刻まれている。
しばらくは僧の慶順が塚の隣に庵を建てて菩提(ぼだい)を弔ったが、当時、京都随一の暴れ川だった鴨川。塚は濁流に流されて跡形もなくなってしまう。
その塚にあった石櫃を慶長16(1611)年、高瀬川の工事を手がけていた京都の豪商、角倉了以(りょうい)が偶然に見つける。そして、了以は秀次一族の供養にと、石櫃に刻まれた「悪逆塚」の文字を消したうえで建てた寺が今の瑞泉寺である。
産経新聞より引用。
北の粛清を見て思ふ。
◆亡き子を抱いて
最初にひき出されたのが側室の一(いち)の台(だい)。一の台と秀吉とは因縁が深く、征夷大将軍になりたい秀吉が足利義昭と親子関係を結ぼうと画策するも、義昭の拒否にあって諦めかけていたときに関白就任を勧めたのが一の台の父、右大臣の今出川春季(はるすえ)だった。
当初は秀吉の側室になるはずだったが、一の台が拒んだために秀次が処刑されたのではと噂されるほどの絶世の美女だったという。
引導役となった大雲院の僧、貞安(ていあん)上人は「南無阿弥陀仏」を10回唱えると極楽に往生できるという十念の法を一の台に授けると、一の台は辞世の句を読み、首をはねられていった。享年34歳。
秀次の嫡男、仙千代丸の母の於和子(おわこ)は4番目に呼ばれた。上質の絹織物の上に経帷子(きょうかたびら)を羽織り、白綾の袴(はかま)姿で、水晶の数珠を手に持っていた。
天正6(1578)年生まれの於和子はまだ17歳という若さ。しかしながら39人中で仙千代丸が最初に処刑されると、すぐに遺体を抱きかかえ、「母もまもなく…」とじっと耐えながら数人を見送る。
そして自分の番。わが子を抱いたまま貞安上人の十念を受けると、わが子を離すことなく、切られていった。辞世の句は、
■後の世をかけしえにしをたのみにて あとしたひゆく死出の山道
仏をひとすらに信じてすがっていく於和子の心が伝わってくる。
◆会うこともなく
中には秀次の顔を見ることもなく、この場を迎えた女人もいた。11番目に処刑された出羽(今の山形)の大名・最上(もがみ)義光の三女、於伊万(おいま)(満)。駒姫とも呼ばれている。天正9(1581)年生まれ。
天正19年、秀次が東北に遠征中に姫を見そめ、側室として差し出すよう義光に迫ったものの、姫はまだ10歳。義光は「成長を待ってほしい」と説得してその場を収めた。
それから4年。東北一の美女と噂されるほどに成長した姫は約束通り秀次の側室として7月に上洛し、長旅の疲れを癒している最中に出くわしたのが、秀次の切腹事件だった。
父、義光の必死の助命嘆願を処刑の直前に聞いた秀吉の側室、淀君らの声もあり、これを無視できない秀吉は姫を鎌倉で尼にでもしようと、刑場に早馬を仕立てたが、あと一歩間に合わなかったという。
この理不尽な処刑に義光はしばし食事ものどを通らず、嘆き悲しむ日々を送った姫の母、大崎は姫の後を追うように亡くなっている。
■つみをきるみだのつるぎにかかる身の なにかいつつのさわりあるべき
阿弥陀仏にすっかり心を委ねていたのだろう。大名の娘らしく、処刑場で終始落ち着き払っていたという姫の辞世の句は姫のお気に入りだった衣装で表装され、今も生き続けている。
◆悪逆塚
刑場のまわりを埋め尽くした人たちは首が落ちる度に悲鳴をあげ、顔を背けた。遺体の引き渡しを願う公家もいたが許さず、切ってはあらかじめ用意しておいた大きな穴に遺体を次々と投げ込んでいった。
到底、高貴な人たちの埋葬とは思えない仕打ちに、周囲の人たちの憤りも増すばかりだった。
仙千代丸の処刑から約4時間。最後の於知保(おちぼ)の首がはねられたときには午後4時を過ぎていた。刑場のあちこちに付いた39人の血は暮れゆく西日で紅色に染まり、カラスの鳴き声が響き渡った。
39人の遺体が投げ込まれた穴はすぐに埋められると土と石を四角錐(すい)に盛った塚が築かれ、その上には秀次の首を収めた石櫃(ひつ)が乗った。
よほど「秀次=極悪非道人」を印象づけたかったのだろう。石櫃には秀次の切腹した7月15日の日付とともに「悪逆塚」の文字が刻まれている。
しばらくは僧の慶順が塚の隣に庵を建てて菩提(ぼだい)を弔ったが、当時、京都随一の暴れ川だった鴨川。塚は濁流に流されて跡形もなくなってしまう。
その塚にあった石櫃を慶長16(1611)年、高瀬川の工事を手がけていた京都の豪商、角倉了以(りょうい)が偶然に見つける。そして、了以は秀次一族の供養にと、石櫃に刻まれた「悪逆塚」の文字を消したうえで建てた寺が今の瑞泉寺である。
産経新聞より引用。
北の粛清を見て思ふ。