死を考える
- 2013/12/29
- 21:49
昨日親戚で集まりちょっとした忘年会をしたんですけどね、話題はみんないい年を過ぎているから必然的に終活をどうするかみたいな話になる。
俺の理想は長生きをしたいとは思わないが死ぬときは猫のように人知れず土に帰りたいと思っている。
猫はどんなに懐いていても死に直面すると、飼い主に別れの挨拶を済ますと姿を消し、人知れずひっそりと生涯に幕を下ろすというじゃない、俺もそうありたいなぁと思う。
治る病気なら治すが治らない病気なら天命に抗わず、ひっそり眠るように死にたい。もちろん、それは理想であり、はからずも認知症を患い右も左も分からなくなるくらいなら自我があるうちに潔く自決することに代わりはない。不様な醜態晒して長生きするは死すことよりもよっぽど屈辱である。
人間としての尊厳を最期まで失わず、そして最期は一匹の野良猫に帰る、こんなふうにありたいと、近ごろはそう思っている。病院のベッドでモルヒネ漬けになり、気持ちいいままに逝きたいとは思わない、それは自然な動物の死とは言えず、自分の目指す死に方とは背反してしまう。
震災以降、死というものについてつとに考えることが多くなった。
そして導きだされた結論が猫のように逝き、土に帰るということである。
俺の理想は長生きをしたいとは思わないが死ぬときは猫のように人知れず土に帰りたいと思っている。
猫はどんなに懐いていても死に直面すると、飼い主に別れの挨拶を済ますと姿を消し、人知れずひっそりと生涯に幕を下ろすというじゃない、俺もそうありたいなぁと思う。
治る病気なら治すが治らない病気なら天命に抗わず、ひっそり眠るように死にたい。もちろん、それは理想であり、はからずも認知症を患い右も左も分からなくなるくらいなら自我があるうちに潔く自決することに代わりはない。不様な醜態晒して長生きするは死すことよりもよっぽど屈辱である。
人間としての尊厳を最期まで失わず、そして最期は一匹の野良猫に帰る、こんなふうにありたいと、近ごろはそう思っている。病院のベッドでモルヒネ漬けになり、気持ちいいままに逝きたいとは思わない、それは自然な動物の死とは言えず、自分の目指す死に方とは背反してしまう。
震災以降、死というものについてつとに考えることが多くなった。
そして導きだされた結論が猫のように逝き、土に帰るということである。