熊
- 2023/11/10
- 14:44
茨城県と言えば、関東地方で唯一熊のいない県として知られているが、栃木や福島の県境に位置する大子町では、数年に一度のペースでツキノワグマの目撃情報が寄せられる。一時的に栃木や福島から流れてきた個体なのか、それともツキノワグマが茨城に定着しつつあるのか、専門家の間でも意見が分かれる所である。
一般的に、熊が人里に現れれば駆除する必要があるとされる。ここに感情論が絡んでくるから厄介だ。熊を殺すのは可哀想だと主張する人が役所に苦情を入れる。このような感情論に基づく意見は哲学や宗教の問題にまで発展しやすく、結論を見いだすのが困難になる。
世の中には熊やイルカなど、動物の命を守るべきだという主張が多い。しかし、その殆どが見た目の可愛さに基づいており、極めて偏った主観で命の価値を決めることには疑問が残る。環境保護団体シーシェパードの活動はその典型的な例でもある。
では、見た目が可愛くなければ殺してもいいのだろうか。この類いの議論はすこぶる陳腐で独善的だ。
当然ながら熊の駆除は人間に危害を加える可能性があるために行われる。
もちろん、殺さずに済むのであればそれが最善であるが、現実問題として多くの死傷者が出ていることも事実である。
幸いにして命は無事でも熊に襲われ失明をしてしまった人や手足が不自由になった人もいる。特に若い女性であれば顔を爪や牙でえぐられ、傷跡が残ると就職や結婚などその後の人生に大きな影響を及ぼす。肉体的な損傷よりも精神的なダメージが大きい。被害者のことを考えれば、熊を放置するわけにはいかない。
人間は自然の中で神のような存在と言える。地球の環境を大きく変える能力を持ち、自然淘汰を加速させることも、止めることもできる。北極の氷が溶け、キリバスが水没するのも、人間の活動の影響によるものだ。いくら凶暴な虎やライオンが増えても猛獣が極地の氷を溶かしたりはしない。人間は自然の一部でありながら、その枠を超えた存在でもある。
熊の問題は、自然との共存という理想と現実との間での葛藤を象徴している。熊が人里に下りてくるのは、「たまたま」の出来事かもしれないが、人間に危害を加える場合には、積極的な介入が必要になる。熊に限らず、人間が神となり、自然に介入することで、生態系が保たれることもある。
もはや完全な自然に戻ることは不可能かもしれないが、自然を尊重しつつ、人間と動物が共存する方法を模索することが重要だ。熊が不憫であるのはもちろんだが人間の命を守るためには、時に厳しい選択を迫られることもある。人間がその厳しい選択を担うのも神としての責務だ。
一般的に、熊が人里に現れれば駆除する必要があるとされる。ここに感情論が絡んでくるから厄介だ。熊を殺すのは可哀想だと主張する人が役所に苦情を入れる。このような感情論に基づく意見は哲学や宗教の問題にまで発展しやすく、結論を見いだすのが困難になる。
世の中には熊やイルカなど、動物の命を守るべきだという主張が多い。しかし、その殆どが見た目の可愛さに基づいており、極めて偏った主観で命の価値を決めることには疑問が残る。環境保護団体シーシェパードの活動はその典型的な例でもある。
では、見た目が可愛くなければ殺してもいいのだろうか。この類いの議論はすこぶる陳腐で独善的だ。
当然ながら熊の駆除は人間に危害を加える可能性があるために行われる。
もちろん、殺さずに済むのであればそれが最善であるが、現実問題として多くの死傷者が出ていることも事実である。
幸いにして命は無事でも熊に襲われ失明をしてしまった人や手足が不自由になった人もいる。特に若い女性であれば顔を爪や牙でえぐられ、傷跡が残ると就職や結婚などその後の人生に大きな影響を及ぼす。肉体的な損傷よりも精神的なダメージが大きい。被害者のことを考えれば、熊を放置するわけにはいかない。
人間は自然の中で神のような存在と言える。地球の環境を大きく変える能力を持ち、自然淘汰を加速させることも、止めることもできる。北極の氷が溶け、キリバスが水没するのも、人間の活動の影響によるものだ。いくら凶暴な虎やライオンが増えても猛獣が極地の氷を溶かしたりはしない。人間は自然の一部でありながら、その枠を超えた存在でもある。
熊の問題は、自然との共存という理想と現実との間での葛藤を象徴している。熊が人里に下りてくるのは、「たまたま」の出来事かもしれないが、人間に危害を加える場合には、積極的な介入が必要になる。熊に限らず、人間が神となり、自然に介入することで、生態系が保たれることもある。
もはや完全な自然に戻ることは不可能かもしれないが、自然を尊重しつつ、人間と動物が共存する方法を模索することが重要だ。熊が不憫であるのはもちろんだが人間の命を守るためには、時に厳しい選択を迫られることもある。人間がその厳しい選択を担うのも神としての責務だ。