不思議に思う
- 2023/09/19
- 17:14
福島の処理水放出を見てふと思ったことがある。
今、海釣りに出掛けてもあまり魚は釣れない。魚群探知機を積んだ船釣りであればピンポイントで魚影を狙えるためそれなりに釣れるが堤防や砂浜からの釣りは殆ど釣れない。その船釣りであっても一様に船頭は昔より釣れなくなったと嘆く。
水が汚れ、魚がいなくなったのかといえば違う。
日立市の場合、平成25年頃までは下水が整備されておらず、水道水用の取水河川である久慈川こそ、厳格に管理されていたが、それ以外の河川、用水路は非常に汚かった。
特に久慈町地内を流れる瀬上川の汚さといったら地域住民の民度の低さも相まって東京の河川並みに汚く、生活雑排水も浄化槽を通さず、そのまま川に垂れ流す有様。
まあ臭いし、汚かった。
川面には工業用の油が浮いて虹色の波紋がキラキラ揺らめいていた。洗濯機や台所からの水も自宅に繋いだパイプからそのまま川に流してしまう。腐った魚がプカプカ浮いているが住民が投げ捨てた魚なのかこの汚い水にやられて死んだ魚なのか分からない。
あまり言いたくはないが、当時の瀬上川周辺に住む住民の民度の低さは目を見張るものがあり、ゴミは川に投げるもの、それが当たり前の貧民窟であった。掘っ立て小屋同然の自宅窓から川に向かってゴミや吸い殻を投げるなど日常茶飯事、イチイチ驚いてなどいられない。
この川に落ちたら確実に病気になるなと思ったものだ。
たまに大雨で瀬上川が氾濫すると暫くの間、吐き気を催すほどひどい悪臭を放っていた。
また、農家が水田で使う農薬にしてもそうだ。今の農薬は比較的環境に悪影響を与えない成分で作られているが、昭和の時代の農薬は環境のことなどこれっぽちも考えていない得体の知れない代物であった。散布する農薬が危険すぎるため自分の家で食べる米には農薬を使わず、農協に供出する米にだけたっぷり農薬を噴霧すると、とんでもないことを言い出す農家も多かった。
当然農薬の入った水田の水は最終的に海に流れ出る。
しかし、あれから年が流れて幾星霜、今は下水道が整備され、浄化槽設置も義務化、生活雑排水の河川への流入はかなり減った。農薬も環境にやさしいものに変わった。貧民窟ももうないだろう。
明らかに自然環境は良くなっているにも関わらず、魚がいないのだ。
中学の頃の遊びと言えば魚釣り。中学生がお小遣いで買う餌や仕掛け、たかが知れている。なのにまず何かしらの魚は釣れる。ボウズ(一匹も釣れないこと)は殆どない。アジ、サバ、イワシ、アイナメ、カレイ、ハゼ、イシモチ、シロギスなどが簡単に釣れた。
社会人になり、金銭に余裕が出るようになると、餌も仕掛けも上等なものになる。だが、釣れないのだ。自分だけ釣れないのなら単に腕がないだけと割り切れるが周りを見てもまったく釣れていない。ネットの釣り情報を見ても肩透かしな釣果報告ばかり。
結局、魚がいないのだろう。
不思議に思う。
水はここ三十年の間で格段に綺麗になった。かつて悪名を誇った瀬上川も少なくとも悪臭を放つようなことはない。なにも日立市の話ばかりではない、茨城県内ならどこも似たり寄ったりだろう。いや、全国的に見てもそうだろう。
江戸時代に流行った狂歌がある。
「白河の清きに魚も棲みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
示唆に富む一首だが、歴史のうんちくは別にして、確かに水は綺麗になり過ぎると魚は住みづらくなる。観賞魚も水を取り換え綺麗にすると体調を崩し、死ぬものが少なくない。だから一気に水交換はせず、半分程度の水交換にするのが観賞魚飼育のコツ。
だが、本当にそういう問題なのだろうか。よくわからない。すごく不思議。地球温暖化の影響だとばかりはいえないはず。
今、海釣りに出掛けてもあまり魚は釣れない。魚群探知機を積んだ船釣りであればピンポイントで魚影を狙えるためそれなりに釣れるが堤防や砂浜からの釣りは殆ど釣れない。その船釣りであっても一様に船頭は昔より釣れなくなったと嘆く。
水が汚れ、魚がいなくなったのかといえば違う。
日立市の場合、平成25年頃までは下水が整備されておらず、水道水用の取水河川である久慈川こそ、厳格に管理されていたが、それ以外の河川、用水路は非常に汚かった。
特に久慈町地内を流れる瀬上川の汚さといったら地域住民の民度の低さも相まって東京の河川並みに汚く、生活雑排水も浄化槽を通さず、そのまま川に垂れ流す有様。
まあ臭いし、汚かった。
川面には工業用の油が浮いて虹色の波紋がキラキラ揺らめいていた。洗濯機や台所からの水も自宅に繋いだパイプからそのまま川に流してしまう。腐った魚がプカプカ浮いているが住民が投げ捨てた魚なのかこの汚い水にやられて死んだ魚なのか分からない。
あまり言いたくはないが、当時の瀬上川周辺に住む住民の民度の低さは目を見張るものがあり、ゴミは川に投げるもの、それが当たり前の貧民窟であった。掘っ立て小屋同然の自宅窓から川に向かってゴミや吸い殻を投げるなど日常茶飯事、イチイチ驚いてなどいられない。
この川に落ちたら確実に病気になるなと思ったものだ。
たまに大雨で瀬上川が氾濫すると暫くの間、吐き気を催すほどひどい悪臭を放っていた。
また、農家が水田で使う農薬にしてもそうだ。今の農薬は比較的環境に悪影響を与えない成分で作られているが、昭和の時代の農薬は環境のことなどこれっぽちも考えていない得体の知れない代物であった。散布する農薬が危険すぎるため自分の家で食べる米には農薬を使わず、農協に供出する米にだけたっぷり農薬を噴霧すると、とんでもないことを言い出す農家も多かった。
当然農薬の入った水田の水は最終的に海に流れ出る。
しかし、あれから年が流れて幾星霜、今は下水道が整備され、浄化槽設置も義務化、生活雑排水の河川への流入はかなり減った。農薬も環境にやさしいものに変わった。貧民窟ももうないだろう。
明らかに自然環境は良くなっているにも関わらず、魚がいないのだ。
中学の頃の遊びと言えば魚釣り。中学生がお小遣いで買う餌や仕掛け、たかが知れている。なのにまず何かしらの魚は釣れる。ボウズ(一匹も釣れないこと)は殆どない。アジ、サバ、イワシ、アイナメ、カレイ、ハゼ、イシモチ、シロギスなどが簡単に釣れた。
社会人になり、金銭に余裕が出るようになると、餌も仕掛けも上等なものになる。だが、釣れないのだ。自分だけ釣れないのなら単に腕がないだけと割り切れるが周りを見てもまったく釣れていない。ネットの釣り情報を見ても肩透かしな釣果報告ばかり。
結局、魚がいないのだろう。
不思議に思う。
水はここ三十年の間で格段に綺麗になった。かつて悪名を誇った瀬上川も少なくとも悪臭を放つようなことはない。なにも日立市の話ばかりではない、茨城県内ならどこも似たり寄ったりだろう。いや、全国的に見てもそうだろう。
江戸時代に流行った狂歌がある。
「白河の清きに魚も棲みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
示唆に富む一首だが、歴史のうんちくは別にして、確かに水は綺麗になり過ぎると魚は住みづらくなる。観賞魚も水を取り換え綺麗にすると体調を崩し、死ぬものが少なくない。だから一気に水交換はせず、半分程度の水交換にするのが観賞魚飼育のコツ。
だが、本当にそういう問題なのだろうか。よくわからない。すごく不思議。地球温暖化の影響だとばかりはいえないはず。