ぼっちに悩む人へ
- 2023/08/16
- 11:49
『長野県中野市で5月25日夕、警察官2人を含む男女4人が殺害される事件が起きた。逮捕された容疑者の男(32)は、殺害した近所の女性2人に「ぼっちとばかにされていると思った」と供述し、世間に衝撃を与えた。「ぼっち」とは「独りぼっち」のこと。1990年代から2000年代にかけ生まれた概念で、「友だちがいないかわいそうな人」を指す言葉として若い世代に定着した。教育学者で千葉大学の明石要一名誉教授(教育社会学)は、「若者は友だちがいなければダメだという同調圧力に苦しめられている」と指摘する。(後略)』
AERA dot. (アエラドット) に掲載された記事の抜粋だ。
友だちはいないよりはいた方がいい、でもだからといって無理に作る必要はない。あくまでも個人的な意見。
心から友達と呼べる存在は片手でも余るぐらいだ。親友の一人である兄貴分のIさんを亡くし、その指の数も一つ減った。
最近はあえて友達を作らないようにしている。
人が何故神様になれないかといえば人は誰しもが欠点や悪いところがあるからだ。友達になるのはその欠点や悪いところまでを含めて互いに認め合うこと。今更、そういう悪い部分を受け入れるのが煩わしいので、ここ暫く友達は作らないでいる。
仕事の関係者や飲み屋の常連客と仲良くなってもその場限りの付き合いに終始するようにしている。仕事の関係者であれば仕事以外の場所、飲み屋の常連客であれば飲み屋以外の場所、そういうところでは一切接触しないようにしている。決して一線を越えない。相手のプライベートに踏み込まない代わりにこちらにも踏み込ませない。ある種の不可侵条約。
先日も、とある仕事関係者からバーベキューに誘われたが、ありがたく気持ちだけを頂いて丁寧にお断わりさせていただいた。もう何年も忘年会にも行っていない。
交友関係が広がらない代わりに、人間関係の煩わしさで悩む必要もない。それでいいと思っている。
しかしながらそう思えるのも確かに数人ではあるが、何人かの本当の意味で友達と呼べる人がいるからでもある。先日、数か月ぶりにS姉貴に連絡してみた。他愛のない近況報告。最近はコロナで会えずにいる、もうかれこれ4年近く会っていない。それでも自然に連絡をしあえるのが友達である。そんな関係の友達が何人かいればそれでいい。
ただ、そういった友達がいるからこそ、割りと呑気なことを言っていられるのも事実。
じゃあどうするか。無責任だが、友達を作るのは難しい。
ここまで書いたように、俺とは友達になれない。悪い部分を含めて惚れ込んでしまう人が現れれば別だが、そこそこいい人程度であれば、「こんにちは」、「ごきげんよう」のみの当たり障りのない関係に終始。つまり、誰も俺となんか友達になりたくはないだろうが、なんにせよ、こちらがガードしているため俺とは友達になれない。結びつかないのだ。
では、どうやって結びつけを見つけるか?
正直考えたことがない。
気付いたら友達になっていたばかりで、意図して友達を見つけようと思った経験がないからだ。若いうちなら色々なところに顔を出せば見つかるかもしれない。友達が出来ないと嘆く人はそもそも顔を出す勇気がないというジレンマにぶつかる。
男女の分け隔てなく困っている人がいれば助けてあげる、これが一番の近道かもしれない。重い物を上げられずに困っているお年寄りがいれば、どれ貸してみてくださいといって持ってあげる。電車で困っている妊婦さんがいれば席を譲る。それを見た誰かがあなたを気に入ってくれるかもしれない。だからといって打算はいけない。綺麗な女の子だけ助けるのはいかにも打算的で見苦しい。また見返りを求めてもいけない。純粋な共助の精神だ。
わざわざお節介を焼く必要はないが、困っている人がいれば気持ちをくれてやる。結局その積み重ねじゃないのか。
>>川口 智秋さん
記事は本気半分、冗談半分ですが、恋愛をしたくても出来ない階層の人たちをなんとかするのも少子化対策の一つだと思います。身体に悪影響を及ぼすステロイド剤や違法ドラッグを使った痩身は言語道断だと思いますが、美容整形だってそれで気持ちが前向きになれるのであればアリだと思います。
AERA dot. (アエラドット) に掲載された記事の抜粋だ。
友だちはいないよりはいた方がいい、でもだからといって無理に作る必要はない。あくまでも個人的な意見。
心から友達と呼べる存在は片手でも余るぐらいだ。親友の一人である兄貴分のIさんを亡くし、その指の数も一つ減った。
最近はあえて友達を作らないようにしている。
人が何故神様になれないかといえば人は誰しもが欠点や悪いところがあるからだ。友達になるのはその欠点や悪いところまでを含めて互いに認め合うこと。今更、そういう悪い部分を受け入れるのが煩わしいので、ここ暫く友達は作らないでいる。
仕事の関係者や飲み屋の常連客と仲良くなってもその場限りの付き合いに終始するようにしている。仕事の関係者であれば仕事以外の場所、飲み屋の常連客であれば飲み屋以外の場所、そういうところでは一切接触しないようにしている。決して一線を越えない。相手のプライベートに踏み込まない代わりにこちらにも踏み込ませない。ある種の不可侵条約。
先日も、とある仕事関係者からバーベキューに誘われたが、ありがたく気持ちだけを頂いて丁寧にお断わりさせていただいた。もう何年も忘年会にも行っていない。
交友関係が広がらない代わりに、人間関係の煩わしさで悩む必要もない。それでいいと思っている。
しかしながらそう思えるのも確かに数人ではあるが、何人かの本当の意味で友達と呼べる人がいるからでもある。先日、数か月ぶりにS姉貴に連絡してみた。他愛のない近況報告。最近はコロナで会えずにいる、もうかれこれ4年近く会っていない。それでも自然に連絡をしあえるのが友達である。そんな関係の友達が何人かいればそれでいい。
ただ、そういった友達がいるからこそ、割りと呑気なことを言っていられるのも事実。
じゃあどうするか。無責任だが、友達を作るのは難しい。
ここまで書いたように、俺とは友達になれない。悪い部分を含めて惚れ込んでしまう人が現れれば別だが、そこそこいい人程度であれば、「こんにちは」、「ごきげんよう」のみの当たり障りのない関係に終始。つまり、誰も俺となんか友達になりたくはないだろうが、なんにせよ、こちらがガードしているため俺とは友達になれない。結びつかないのだ。
では、どうやって結びつけを見つけるか?
正直考えたことがない。
気付いたら友達になっていたばかりで、意図して友達を見つけようと思った経験がないからだ。若いうちなら色々なところに顔を出せば見つかるかもしれない。友達が出来ないと嘆く人はそもそも顔を出す勇気がないというジレンマにぶつかる。
男女の分け隔てなく困っている人がいれば助けてあげる、これが一番の近道かもしれない。重い物を上げられずに困っているお年寄りがいれば、どれ貸してみてくださいといって持ってあげる。電車で困っている妊婦さんがいれば席を譲る。それを見た誰かがあなたを気に入ってくれるかもしれない。だからといって打算はいけない。綺麗な女の子だけ助けるのはいかにも打算的で見苦しい。また見返りを求めてもいけない。純粋な共助の精神だ。
わざわざお節介を焼く必要はないが、困っている人がいれば気持ちをくれてやる。結局その積み重ねじゃないのか。
>>川口 智秋さん
記事は本気半分、冗談半分ですが、恋愛をしたくても出来ない階層の人たちをなんとかするのも少子化対策の一つだと思います。身体に悪影響を及ぼすステロイド剤や違法ドラッグを使った痩身は言語道断だと思いますが、美容整形だってそれで気持ちが前向きになれるのであればアリだと思います。