アルコールに関する一考察
- 2023/03/27
- 21:18
元TOKIOの山口達也氏が「株式会社山口達也」を立ち上げた。山口氏は「これまでの経験を活かし『アルコール依存症の周りにいる方々』、『依存症全般』に対する講演活動、また自分の経験を活かした『企業向けの危機管理セミナー』開催したいと考えています」とコメントしている。
山口氏のアルコール依存症に対する活動の是非については言わない。肯定もしなければ否定もしない。個人的にはアルコール依存症よりも女子高生への強制わいせつ事件の方がよっぽど深刻だと思っている。事件があまり大ごとにならなかったのは示談金を支払って被害者と和解したからだろう。たまたま顕在化しなかっただけで普段からこんなことばっかりしていたのだろうと思われても抗弁できまい。あれがたった一回の過ちといわれて素直に受け取れるほどこちらも純情ではない。
そりゃあそうだ、舌の根の乾かぬ内に今度は飲酒運転での逮捕だ。信用しろといわれてもそれはさすがに虫が良すぎる。
薬物依存で一番怖いのがアルコール依存症だと思っている。依存症治療を阻む最大の障壁は「違法じゃない」、これに尽きる。酒は飲もうと思えばいつでも飲める。覚せい剤や大麻、コカインなどの違法薬物であれば逮捕され、服役するとその期間は強制的に辞められる。違法薬物の上級依存者になると、刑務所に行くからこそ、クスリが体から抜けて健康になる、刑務所から出てからキメる一発は何よりのご馳走とうそぶくものもいる。
しかし、酒は金さえあれば誰でも買える。いや、あまり大っぴらにいう話ではないが、金がなくとも飲める。墓地に行くと高確率でワンカップのお酒が備えられている。完全に窃盗だがそれを奪って飲んでしまう人もいる。
確かにアルコール依存症も入院して、鍵のある病室に隔離されれば刑務所と同じで酒はやめられる。でも、いつまで入院していればいいのか。死ぬまで入院していればそれはアルコール依存症を克服したといえるだろうが、死ぬまで入院するぐらいなら今この瞬間に死んでしまっても同じ。生きるために治療をするのに、死ぬまで隔離されるとは本末転倒、理解に苦しむ。
かくいう俺も酒に対する意識は自分自身よくわかっていない。飲むのは平均して週2、3回。コロナの自粛期間中は家でも飲んだが、今は飲まない、もっぱら外だ。飲むのはほろ酔いまで。酩酊はほぼない。あってもせいぜい年に1回あるかどうか。その酩酊もここ3年ぐらいない。居酒屋だとビール大瓶1本とレモンサワー1、2杯、少し盛り上がるとこれに日本酒が加わり、700mlの冷酒を1本。バーに行くときは先に居酒屋か焼き鳥屋で先にサワーか生中を1杯か2杯か飲み、あとはダラダラとウイスキーやカクテルを飲む。ウイスキーの量は均すとロックグラスで指4本ってところか。
この酒量のため、決してアルコール依存症ではないが、アルコールがないと人生は寂しいと思う。我慢して飲まずにいろと言われれば我慢できるし、事実、特定の期間を切り出すとまったく飲んでいないスパンがある。ボロアパートに住んでいたときは数ヶ月間、一滴も飲まずにいたりした。それでも平気。
また、自分自身酒を飲むうえで絶対に守っている戒めがある。どんなに飲みたくても午前中は飲まない(午前様で0時を過ぎても飲んでいるは別)。この戒めは50年間生きてきて一度も破ったことがない。茨城には日本でも最大級のビール工場が二つある。キリンとアサヒだ。工場見学すると試飲が出来る。俺は見学に行っても運転手に徹し、ビールを飲まない。出来立てのビールは感動するほどうまいらしいが知らない。通常工場見学は日中、だいたい10時から16時ぐらいまで。飲めずとも全然悔しいとは思わない。
犬は食べ物を見ると唾液が分泌される、パブロフの犬と呼ばれる条件反射の実験だ。出来立てほやほやの生ビールを目の前で見せられると酒好きはたまらず条件反射で唾液が溢れ出し、飲みたくて飲みたくて、自然と体が前のめりになるはずだ。だが俺はならない。昼間は酒を飲まないと決めているため体が酒を欲しない。ある意味これもまた条件反射的に酒を拒否しているのだからパブロフの犬といえるかもしれない。
そうは言いつつ、時折、無性に酒が飲みたくなるのもまた事実。脳が飲酒時の快楽を覚えているのだ。15時ぐらいになると、今夜は飲みに行くかとソワソワし出す。この衝動的な欲求もアルコール依存症と呼ぶのであれば俺もアルコール依存症の一人。だが、ほろ酔いで十分満足してしまうため、少なくとも酒に溺れ、酒が切れると手が震える、酒がないと眠れないといった禁断症状のそれとは違う。今日は飲みに行くかと浮かれていても、やっぱりやめ~たは割りとよくある出来事。
自分でもよくわからないが、女遊びをするわけじゃなし、これぐらいはいいだろうと納得している。想像の話だが恐らく依存症で苦しむ人は制御が効かなくなるのだろう。俺の場合、ほろ酔いでいい気分になる、「すいませ~ん、お勘定」、これでおしまい。自分を基準にして申し訳ないが、アルコールと上手に付き合っている人は概ねこんな感じだろう。でもアルコール依存症の人は違う、ほろ酔いがストップじゃなく、エンジンが掛かってしまう分岐点。理性が効かなくなる。或いはほろ酔いなんてものは元から存在しないのかもしれない。
身の回りでも割りとタバコをやめられた人は多い。元々喫煙をしないので、禁煙のつらさはわからないが、タバコ価格の高騰も相まってきっぱりやめた人も決して少なくない。だがアル中がアルコールをやめられたという話をついぞ聞いたことがない。あるのは肝臓やすい臓を患って飲めなくなってしまったケースぐらい。これを純粋にやめたといっていいものなのか。そういう人は得てして血を吐いたり、黄だんがでたりもする。アル中が酒を飲めなくなったらお迎えは間もなく。別に山口氏の揚げ足取るつもりはないが、ここまでやめられたのは事実でもこれから先の人生ずっとやめられるかといえば正直懐疑的に見てしまう。それでなくとも酩酊したまま、バイクを運転してしまうパー太郎だ。信じろというのが土台な無理な話だ。
結局なにがいいたいかといえばご婦人方は俺を飲みに誘えよって話、奢りならなお良し。基本的にあまり喋りません。一緒に飲んでも凄くつまらない。お通夜を想像してほしい、まさにあれ。
山口氏のアルコール依存症に対する活動の是非については言わない。肯定もしなければ否定もしない。個人的にはアルコール依存症よりも女子高生への強制わいせつ事件の方がよっぽど深刻だと思っている。事件があまり大ごとにならなかったのは示談金を支払って被害者と和解したからだろう。たまたま顕在化しなかっただけで普段からこんなことばっかりしていたのだろうと思われても抗弁できまい。あれがたった一回の過ちといわれて素直に受け取れるほどこちらも純情ではない。
そりゃあそうだ、舌の根の乾かぬ内に今度は飲酒運転での逮捕だ。信用しろといわれてもそれはさすがに虫が良すぎる。
薬物依存で一番怖いのがアルコール依存症だと思っている。依存症治療を阻む最大の障壁は「違法じゃない」、これに尽きる。酒は飲もうと思えばいつでも飲める。覚せい剤や大麻、コカインなどの違法薬物であれば逮捕され、服役するとその期間は強制的に辞められる。違法薬物の上級依存者になると、刑務所に行くからこそ、クスリが体から抜けて健康になる、刑務所から出てからキメる一発は何よりのご馳走とうそぶくものもいる。
しかし、酒は金さえあれば誰でも買える。いや、あまり大っぴらにいう話ではないが、金がなくとも飲める。墓地に行くと高確率でワンカップのお酒が備えられている。完全に窃盗だがそれを奪って飲んでしまう人もいる。
確かにアルコール依存症も入院して、鍵のある病室に隔離されれば刑務所と同じで酒はやめられる。でも、いつまで入院していればいいのか。死ぬまで入院していればそれはアルコール依存症を克服したといえるだろうが、死ぬまで入院するぐらいなら今この瞬間に死んでしまっても同じ。生きるために治療をするのに、死ぬまで隔離されるとは本末転倒、理解に苦しむ。
かくいう俺も酒に対する意識は自分自身よくわかっていない。飲むのは平均して週2、3回。コロナの自粛期間中は家でも飲んだが、今は飲まない、もっぱら外だ。飲むのはほろ酔いまで。酩酊はほぼない。あってもせいぜい年に1回あるかどうか。その酩酊もここ3年ぐらいない。居酒屋だとビール大瓶1本とレモンサワー1、2杯、少し盛り上がるとこれに日本酒が加わり、700mlの冷酒を1本。バーに行くときは先に居酒屋か焼き鳥屋で先にサワーか生中を1杯か2杯か飲み、あとはダラダラとウイスキーやカクテルを飲む。ウイスキーの量は均すとロックグラスで指4本ってところか。
この酒量のため、決してアルコール依存症ではないが、アルコールがないと人生は寂しいと思う。我慢して飲まずにいろと言われれば我慢できるし、事実、特定の期間を切り出すとまったく飲んでいないスパンがある。ボロアパートに住んでいたときは数ヶ月間、一滴も飲まずにいたりした。それでも平気。
また、自分自身酒を飲むうえで絶対に守っている戒めがある。どんなに飲みたくても午前中は飲まない(午前様で0時を過ぎても飲んでいるは別)。この戒めは50年間生きてきて一度も破ったことがない。茨城には日本でも最大級のビール工場が二つある。キリンとアサヒだ。工場見学すると試飲が出来る。俺は見学に行っても運転手に徹し、ビールを飲まない。出来立てのビールは感動するほどうまいらしいが知らない。通常工場見学は日中、だいたい10時から16時ぐらいまで。飲めずとも全然悔しいとは思わない。
犬は食べ物を見ると唾液が分泌される、パブロフの犬と呼ばれる条件反射の実験だ。出来立てほやほやの生ビールを目の前で見せられると酒好きはたまらず条件反射で唾液が溢れ出し、飲みたくて飲みたくて、自然と体が前のめりになるはずだ。だが俺はならない。昼間は酒を飲まないと決めているため体が酒を欲しない。ある意味これもまた条件反射的に酒を拒否しているのだからパブロフの犬といえるかもしれない。
そうは言いつつ、時折、無性に酒が飲みたくなるのもまた事実。脳が飲酒時の快楽を覚えているのだ。15時ぐらいになると、今夜は飲みに行くかとソワソワし出す。この衝動的な欲求もアルコール依存症と呼ぶのであれば俺もアルコール依存症の一人。だが、ほろ酔いで十分満足してしまうため、少なくとも酒に溺れ、酒が切れると手が震える、酒がないと眠れないといった禁断症状のそれとは違う。今日は飲みに行くかと浮かれていても、やっぱりやめ~たは割りとよくある出来事。
自分でもよくわからないが、女遊びをするわけじゃなし、これぐらいはいいだろうと納得している。想像の話だが恐らく依存症で苦しむ人は制御が効かなくなるのだろう。俺の場合、ほろ酔いでいい気分になる、「すいませ~ん、お勘定」、これでおしまい。自分を基準にして申し訳ないが、アルコールと上手に付き合っている人は概ねこんな感じだろう。でもアルコール依存症の人は違う、ほろ酔いがストップじゃなく、エンジンが掛かってしまう分岐点。理性が効かなくなる。或いはほろ酔いなんてものは元から存在しないのかもしれない。
身の回りでも割りとタバコをやめられた人は多い。元々喫煙をしないので、禁煙のつらさはわからないが、タバコ価格の高騰も相まってきっぱりやめた人も決して少なくない。だがアル中がアルコールをやめられたという話をついぞ聞いたことがない。あるのは肝臓やすい臓を患って飲めなくなってしまったケースぐらい。これを純粋にやめたといっていいものなのか。そういう人は得てして血を吐いたり、黄だんがでたりもする。アル中が酒を飲めなくなったらお迎えは間もなく。別に山口氏の揚げ足取るつもりはないが、ここまでやめられたのは事実でもこれから先の人生ずっとやめられるかといえば正直懐疑的に見てしまう。それでなくとも酩酊したまま、バイクを運転してしまうパー太郎だ。信じろというのが土台な無理な話だ。
結局なにがいいたいかといえばご婦人方は俺を飲みに誘えよって話、奢りならなお良し。基本的にあまり喋りません。一緒に飲んでも凄くつまらない。お通夜を想像してほしい、まさにあれ。