12年が経ち
- 2023/03/11
- 10:04
東日本大震災が自分にとってのターニングポイントでもあり、パラダイムシフト。過去何回も書いた。それまで培ってきた価値観が跡形もなく崩れ去った。正しい行いをすれば必ず報われる、子供の頃、学校の先生にそう教わったが、どうやら先生は嘘を教えたらしい。お釈迦様も主イエスキリストもよっぽど耳が悪いのか、神様、助けて、悲痛な叫びにはてんで無関心。
津波に飲まれて亡くなった人の殆どが善行を旨とし、誠実な行いをしてきた人たちばかり。苦しさに悶えながら死んでいく、これにいったいどんな意味があるのか、まるでわからない。天災だから仕方がないと無防備に片付けてよいものか。
徳川家康の馬印は「厭離穢土 欣求浄土」。「えんりえどごんぐじょうど」と読む。意味は「現世は穢れた世界であるからこの世界を厭(いと)い離れ、次生においては清浄な仏の国土に生まれたい」。
家康がいったいどういう意図で「厭離穢土 欣求浄土」を馬印に刻んだのかはわからない。武人としての気構えを示した武田信玄の風林火山、戦の神様毘沙門天にあやかりたいと願い、馬印に「毘」と記した上杉謙信と違って今一つコンセプトがぼやけてしまう。道なき道を切り拓き、新しき時代を創造しようとした信長、秀吉と比べ、神君家康は随分厭世的でもあるし、これから人を殺めようとしている人間が自虐的でもある。
あるかどうか分からぬ来世や極楽浄土より、穢れていても現世を謳歌したい。これが多くの人の答えじゃないのか。生きていればつらく、悲しい経験は誰しもが避けられない。でも、必ずどこかに悲しみを凌駕する幸せな瞬間があるはずだと信じて日々生きている。
春になり、桜が咲くと桜は多くの人を魅了する。決して人を魅了させるために咲くのではないが、桜を見ると美しさに心が奪われ、感動の渦が胸底からこみ上げてくる。胸がいっぱいになり、わけもなく涙が出そうになる。日本人として幸せを感じる瞬間だ。こうした幸せの瞬間を繋ぎ合わせて人は生きていく。次生において清浄な仏の国土に生まれなくても現世をごくごく平凡に生きられればそれで十分。
お年寄りや体の不自由な人を押しのけ我先にと逃げた人が生き延び、使命感に駆られ、弱者を助けに行った人が亡くなった。罪という言葉すら知らない無垢な子供たちが津波に飲まれて死んだ。子供たちはなにか天罰を受けねばならぬほど悪いことをしたのか。諸行無常の一言では片付けられない。
悲しい思い出やつらい記憶があっても現世を楽しみたい。東日本大震災はまるではじめからなかったかのようにこの普遍的な価値観をすべて忘却の彼方へ追いやった。あの世で聞くありがたい念仏よりも現生の罵詈雑言の方が心地よい。欲しいのは眠い目をこすって起き、凡庸な一日に感謝もせず眠りにつくありふれた平凡、おこがましさとは程遠く、贅沢な望みでもない。それすら許さない神様は鬼より非道。
結局大地震の前には神も仏もなく、いかなる宗教も清々しいほど無力だ。鰯の頭も信心から……、今じゃイワシどころかメダカの頭ほどの信心もない。すべて捨て去った。因果応報なんてものは語るのもバカバカしいご都合主義が唱えた空虚なことば。ひとつわかったのが因果も果報もその実、業(カルマ)とは直接結びつかず、それなのに無理やり「因」と「果」とを結びつけようとする宗教の怠惰さと傲慢さ。
東日本大震災でお亡くなりになられたすべての方へ心より哀悼の意を表します。
津波に飲まれて亡くなった人の殆どが善行を旨とし、誠実な行いをしてきた人たちばかり。苦しさに悶えながら死んでいく、これにいったいどんな意味があるのか、まるでわからない。天災だから仕方がないと無防備に片付けてよいものか。
徳川家康の馬印は「厭離穢土 欣求浄土」。「えんりえどごんぐじょうど」と読む。意味は「現世は穢れた世界であるからこの世界を厭(いと)い離れ、次生においては清浄な仏の国土に生まれたい」。
家康がいったいどういう意図で「厭離穢土 欣求浄土」を馬印に刻んだのかはわからない。武人としての気構えを示した武田信玄の風林火山、戦の神様毘沙門天にあやかりたいと願い、馬印に「毘」と記した上杉謙信と違って今一つコンセプトがぼやけてしまう。道なき道を切り拓き、新しき時代を創造しようとした信長、秀吉と比べ、神君家康は随分厭世的でもあるし、これから人を殺めようとしている人間が自虐的でもある。
あるかどうか分からぬ来世や極楽浄土より、穢れていても現世を謳歌したい。これが多くの人の答えじゃないのか。生きていればつらく、悲しい経験は誰しもが避けられない。でも、必ずどこかに悲しみを凌駕する幸せな瞬間があるはずだと信じて日々生きている。
春になり、桜が咲くと桜は多くの人を魅了する。決して人を魅了させるために咲くのではないが、桜を見ると美しさに心が奪われ、感動の渦が胸底からこみ上げてくる。胸がいっぱいになり、わけもなく涙が出そうになる。日本人として幸せを感じる瞬間だ。こうした幸せの瞬間を繋ぎ合わせて人は生きていく。次生において清浄な仏の国土に生まれなくても現世をごくごく平凡に生きられればそれで十分。
お年寄りや体の不自由な人を押しのけ我先にと逃げた人が生き延び、使命感に駆られ、弱者を助けに行った人が亡くなった。罪という言葉すら知らない無垢な子供たちが津波に飲まれて死んだ。子供たちはなにか天罰を受けねばならぬほど悪いことをしたのか。諸行無常の一言では片付けられない。
悲しい思い出やつらい記憶があっても現世を楽しみたい。東日本大震災はまるではじめからなかったかのようにこの普遍的な価値観をすべて忘却の彼方へ追いやった。あの世で聞くありがたい念仏よりも現生の罵詈雑言の方が心地よい。欲しいのは眠い目をこすって起き、凡庸な一日に感謝もせず眠りにつくありふれた平凡、おこがましさとは程遠く、贅沢な望みでもない。それすら許さない神様は鬼より非道。
結局大地震の前には神も仏もなく、いかなる宗教も清々しいほど無力だ。鰯の頭も信心から……、今じゃイワシどころかメダカの頭ほどの信心もない。すべて捨て去った。因果応報なんてものは語るのもバカバカしいご都合主義が唱えた空虚なことば。ひとつわかったのが因果も果報もその実、業(カルマ)とは直接結びつかず、それなのに無理やり「因」と「果」とを結びつけようとする宗教の怠惰さと傲慢さ。
東日本大震災でお亡くなりになられたすべての方へ心より哀悼の意を表します。