なにがキツイって
- 2023/01/09
- 22:35
どうする家康のなにがキツかったって、通説の家康像をまるっきり否定しているところ。
15分しか見ていないのでよく分からないが、有村架純演じる瀬名という女性が徳川家康の初めの妻である築山殿であると思われる。
瀬名の詳しい出自は未だ明らかになっておらず、今川義元の姪、若しくは親族であるといわれている。家康とは早い話政略結婚。
一応、家康の元へ嫁に行った体になっているが、絶対的権力者である今川義元の姪(親族)であるため、新婚当時の立場は瀬名の方が圧倒的に上。家康を毛嫌いとまでは言わないが、家臣も含め、瀬名は三河の田舎者と常に小馬鹿にした態度を取ったとされている。お世辞にも夫婦仲がよかったとはいえない。事実、瀬名が信長の逆鱗に触れ、死罪を言い渡されたときも、家康が信長に助命を申し出た形跡は特に見当たらない。家康に人並み程度の恋慕の情があれば許す許されるは別にしても信長に助命嘆願をしたのではないかと思う。信長とて同盟者である以上、家康の頼みであれば無碍には出来ず、死罪を流罪にするぐらいのことはしたかもしれない。
つまり、それだけ夫婦仲は冷えきっていた関係であったといえるだろう。
このあたりのことは『三河物語』、『当代記』、『駿府記』などになんとなく記されているのを山岡荘八や司馬遼太郎が昭和の時代に面白おかしく脚色し、それらを我々が知る徳川家康像として捉えている。
ちなみに、三河物語は天下のご意見番大久保彦左衛門こと、大久保忠教(おおくぼただたか)の作。
大久保忠教は本家の大久保忠隣(ただちか)が江戸幕府内の政争に敗れ失脚したのを本多正信、正純父子の陰謀と決めつけており、三河物語も本多父子憎しの私怨が執筆の原点。それゆえ、読み物としては一級品であるが、歴史資料としての正確性はないとされる。
人間、五十年も生きてくると、これまで育んできたイメージを変えたくない。一見誠実そうに見えて、その実、誰よりもしたたかでずる賢く、老獪な狸じじい、徳川家を守るためであれば子や妻を殺すことさえも厭わない冷酷で非情な男、こういうイメージを、今更わざわざ覆したくないのだ。
これを言っちゃ身も蓋もないが、結局のところ、400年も前のことなど誰も分からない。
昭和の文豪が勝手に作り上げたイメージを恐らく徳川家康とはこういう人だろうと我々は思い込んいるにほかならない。何か新たな歴史資料が見つかり、これまでのイメージを覆すだけの根拠があればともかく、そういったものがない以上、思い込みの家康像を俺はそのままにしておきたい。
これは家康に限らず、全ての想像している歴史上の人物がそう。アラフィフ世代であると鎌倉幕府の開府は1192年と教わったが、今の日本史の教科書では1185年と記されている。
歴史家が文献を調査することで鎌倉幕府の成立は通説よりも7年早いと結論づけ、無知蒙昧な俺などは有名な歴史の先生がそういうのだからそうなのだろうとそのまま受け止めているが、それでも想起している頼朝像は変えていない。あくまでも受け入れるのは客観的に事実として見直された数値の誤差まで。
当たり前だが、家康も誰も見たことはないので、もしかすると、案外、「どうする家康」の家康像こそが意外や意外、実像に近いのかもしれない。
でも、通説を覆してまでコメディタッチの家康像を受け入れるにはあまりにも俺はとしを食い過ぎた。それは出来ない。イケメンの若き家康に一目ぼれをした瀬名が家康と恋に落ちる、そんなラブストーリーを信じるにはあまりも時が遅すぎた。だからキツ過ぎて、15分で脱落してしまった。
15分しか見ていないのでよく分からないが、有村架純演じる瀬名という女性が徳川家康の初めの妻である築山殿であると思われる。
瀬名の詳しい出自は未だ明らかになっておらず、今川義元の姪、若しくは親族であるといわれている。家康とは早い話政略結婚。
一応、家康の元へ嫁に行った体になっているが、絶対的権力者である今川義元の姪(親族)であるため、新婚当時の立場は瀬名の方が圧倒的に上。家康を毛嫌いとまでは言わないが、家臣も含め、瀬名は三河の田舎者と常に小馬鹿にした態度を取ったとされている。お世辞にも夫婦仲がよかったとはいえない。事実、瀬名が信長の逆鱗に触れ、死罪を言い渡されたときも、家康が信長に助命を申し出た形跡は特に見当たらない。家康に人並み程度の恋慕の情があれば許す許されるは別にしても信長に助命嘆願をしたのではないかと思う。信長とて同盟者である以上、家康の頼みであれば無碍には出来ず、死罪を流罪にするぐらいのことはしたかもしれない。
つまり、それだけ夫婦仲は冷えきっていた関係であったといえるだろう。
このあたりのことは『三河物語』、『当代記』、『駿府記』などになんとなく記されているのを山岡荘八や司馬遼太郎が昭和の時代に面白おかしく脚色し、それらを我々が知る徳川家康像として捉えている。
ちなみに、三河物語は天下のご意見番大久保彦左衛門こと、大久保忠教(おおくぼただたか)の作。
大久保忠教は本家の大久保忠隣(ただちか)が江戸幕府内の政争に敗れ失脚したのを本多正信、正純父子の陰謀と決めつけており、三河物語も本多父子憎しの私怨が執筆の原点。それゆえ、読み物としては一級品であるが、歴史資料としての正確性はないとされる。
人間、五十年も生きてくると、これまで育んできたイメージを変えたくない。一見誠実そうに見えて、その実、誰よりもしたたかでずる賢く、老獪な狸じじい、徳川家を守るためであれば子や妻を殺すことさえも厭わない冷酷で非情な男、こういうイメージを、今更わざわざ覆したくないのだ。
これを言っちゃ身も蓋もないが、結局のところ、400年も前のことなど誰も分からない。
昭和の文豪が勝手に作り上げたイメージを恐らく徳川家康とはこういう人だろうと我々は思い込んいるにほかならない。何か新たな歴史資料が見つかり、これまでのイメージを覆すだけの根拠があればともかく、そういったものがない以上、思い込みの家康像を俺はそのままにしておきたい。
これは家康に限らず、全ての想像している歴史上の人物がそう。アラフィフ世代であると鎌倉幕府の開府は1192年と教わったが、今の日本史の教科書では1185年と記されている。
歴史家が文献を調査することで鎌倉幕府の成立は通説よりも7年早いと結論づけ、無知蒙昧な俺などは有名な歴史の先生がそういうのだからそうなのだろうとそのまま受け止めているが、それでも想起している頼朝像は変えていない。あくまでも受け入れるのは客観的に事実として見直された数値の誤差まで。
当たり前だが、家康も誰も見たことはないので、もしかすると、案外、「どうする家康」の家康像こそが意外や意外、実像に近いのかもしれない。
でも、通説を覆してまでコメディタッチの家康像を受け入れるにはあまりにも俺はとしを食い過ぎた。それは出来ない。イケメンの若き家康に一目ぼれをした瀬名が家康と恋に落ちる、そんなラブストーリーを信じるにはあまりも時が遅すぎた。だからキツ過ぎて、15分で脱落してしまった。