多様性に対する私見
- 2022/12/26
- 13:32
昨今、多様性について語られることが殊の外多い。
多用性については性的マイノリティに寛容な社会づくり、これを一元的に報道されることが多い、ただ、多様性とはもっと単純なことのような気がする。
例えば予定を記録する場合、どうするか?パソコンやスマホが普及する前は手帳やカレンダーに記す、若しくは暗記する、凡そこの二通りぐらいしかなかった。だが、今はアプリで管理する人もいれば、元々スマホに備わっているスケジュール管理機能を使って予定を記録している人もいる。
先鋭的な考えをする人は得てして未だに手帳を使っている人を非効率だと、小バカにする傾向が強い。
俺が求める多様性とはこういうところだ。手帳に予定を記録する、一見すると令和の御代には時代遅れに映る、ただ、いくら時代遅れであっても本人が満足しているのであればそれでなにも問題ないはずだろう。アプリ派の人間にバカにされる筋合いなどない。もちろん、アプリを体験してみる価値はある。食わず嫌いはいけない。体験したうえでやっぱり俺は手帳の方がしっくりくると思うのであればそれが正解。
つまり、時代が進めば進むほどイノベーションが進む、便利なものが開発され選択できるツールが増える。そのうえで旧来型のものにこだわる人がいてもいいし、新たなものを使いこなす人がいてもいい、こういう取捨選択の自由こそが本来多様性であると思う。
たまたま、メモを例に取ったが基本的になんでもそう。よく、俺は思想が偏っていると親にも苦い顔をされるが、だからといって、反社会的なことでもない限り、他人の考えを頭ごなしに否定することはあまりない。さすがに子供や年寄りは虐待しても構わない、ペットや小動物はイジメてなんぼ、こんなことを平気でいう奴に対してはふざけんなと怒り心頭だが、極端な話、本人が左翼的な思想を持っていたとしても、それだけでその人の人格を否定するようなことはない。
また、これは逆もしかり。
LGBTを否定はしないが、心底気持ち悪いと思っている。過去に何度も書いた。
だが、それもまた一つの考えであるはず。もちろん、LGBTを目の敵にして、特定の個人に対し、暴力を振るったり、誹謗中傷をすることはしていけない。それを踏まえたうえで、気持ち悪いと思うのは一つの考えだろうって話。
とはいえ、多様性を認める寛容な社会づくりは危険性も多分に孕んでいる。
最近とかく俎上に乗りがちな学校に行かなくていい議論、これは正直正負両面があると思っている。
イジメや教師によるハラスメントが原因で心を病んでしまい不登校になってしまった、こういう不登校はいい不登校だと思っている。苦しんで学校に行き、命を絶つぐらいなら不登校でいろが俺の持論。学校は決して自殺への滑走路ではない。それを踏まえたうえで、学校は行けるのであれば行くべきが俺の考えでもある。
勉強だけが学校に通うことの意義や目的だと考えてしまうと、金持ちの子には学校教育など非効率過ぎてしまう。学校に通わず、家庭教師をつけ、自主学習をした方がよっぽど効率がいい。或いはもっと天才的な子であると、家庭教師を含め、そんなものはいらない、本と動画配信のみで十分に理解できる子もいることだろう。
そもそも学校って、社会の縮図そのものだと思うのだ。勉強が得意な子がいれば苦手な子もいる、体育が得意な子がいれば苦手な子もいる、絵や歌が上手な子もいれば苦手な子もいる、性格だってそうだ、いい奴もいればいけ好かない奴もいる、理不尽な校則もあれば分からずやの粗暴な教師もいる。友だちと意見が衝突して取っ組み合いの喧嘩もする。
でも、世の中ってそういうものじゃない。
理不尽なことも避けてばかりじゃ人生が成り立たない、上司や取引先には嫌な奴だっている。下げたくもない頭を下げる場面にも遭遇する。生きていくためには大なり小なり、そういう困難を乗り越える必要がある。そのためには学校生活って社会生活の予行演習になると思うのだ。
学校に行かないのも個性、学校に行かないのも多様性の一つと、さすがにそれを言いだすのは違うんじゃないのかと。
多用性については性的マイノリティに寛容な社会づくり、これを一元的に報道されることが多い、ただ、多様性とはもっと単純なことのような気がする。
例えば予定を記録する場合、どうするか?パソコンやスマホが普及する前は手帳やカレンダーに記す、若しくは暗記する、凡そこの二通りぐらいしかなかった。だが、今はアプリで管理する人もいれば、元々スマホに備わっているスケジュール管理機能を使って予定を記録している人もいる。
先鋭的な考えをする人は得てして未だに手帳を使っている人を非効率だと、小バカにする傾向が強い。
俺が求める多様性とはこういうところだ。手帳に予定を記録する、一見すると令和の御代には時代遅れに映る、ただ、いくら時代遅れであっても本人が満足しているのであればそれでなにも問題ないはずだろう。アプリ派の人間にバカにされる筋合いなどない。もちろん、アプリを体験してみる価値はある。食わず嫌いはいけない。体験したうえでやっぱり俺は手帳の方がしっくりくると思うのであればそれが正解。
つまり、時代が進めば進むほどイノベーションが進む、便利なものが開発され選択できるツールが増える。そのうえで旧来型のものにこだわる人がいてもいいし、新たなものを使いこなす人がいてもいい、こういう取捨選択の自由こそが本来多様性であると思う。
たまたま、メモを例に取ったが基本的になんでもそう。よく、俺は思想が偏っていると親にも苦い顔をされるが、だからといって、反社会的なことでもない限り、他人の考えを頭ごなしに否定することはあまりない。さすがに子供や年寄りは虐待しても構わない、ペットや小動物はイジメてなんぼ、こんなことを平気でいう奴に対してはふざけんなと怒り心頭だが、極端な話、本人が左翼的な思想を持っていたとしても、それだけでその人の人格を否定するようなことはない。
また、これは逆もしかり。
LGBTを否定はしないが、心底気持ち悪いと思っている。過去に何度も書いた。
だが、それもまた一つの考えであるはず。もちろん、LGBTを目の敵にして、特定の個人に対し、暴力を振るったり、誹謗中傷をすることはしていけない。それを踏まえたうえで、気持ち悪いと思うのは一つの考えだろうって話。
とはいえ、多様性を認める寛容な社会づくりは危険性も多分に孕んでいる。
最近とかく俎上に乗りがちな学校に行かなくていい議論、これは正直正負両面があると思っている。
イジメや教師によるハラスメントが原因で心を病んでしまい不登校になってしまった、こういう不登校はいい不登校だと思っている。苦しんで学校に行き、命を絶つぐらいなら不登校でいろが俺の持論。学校は決して自殺への滑走路ではない。それを踏まえたうえで、学校は行けるのであれば行くべきが俺の考えでもある。
勉強だけが学校に通うことの意義や目的だと考えてしまうと、金持ちの子には学校教育など非効率過ぎてしまう。学校に通わず、家庭教師をつけ、自主学習をした方がよっぽど効率がいい。或いはもっと天才的な子であると、家庭教師を含め、そんなものはいらない、本と動画配信のみで十分に理解できる子もいることだろう。
そもそも学校って、社会の縮図そのものだと思うのだ。勉強が得意な子がいれば苦手な子もいる、体育が得意な子がいれば苦手な子もいる、絵や歌が上手な子もいれば苦手な子もいる、性格だってそうだ、いい奴もいればいけ好かない奴もいる、理不尽な校則もあれば分からずやの粗暴な教師もいる。友だちと意見が衝突して取っ組み合いの喧嘩もする。
でも、世の中ってそういうものじゃない。
理不尽なことも避けてばかりじゃ人生が成り立たない、上司や取引先には嫌な奴だっている。下げたくもない頭を下げる場面にも遭遇する。生きていくためには大なり小なり、そういう困難を乗り越える必要がある。そのためには学校生活って社会生活の予行演習になると思うのだ。
学校に行かないのも個性、学校に行かないのも多様性の一つと、さすがにそれを言いだすのは違うんじゃないのかと。