有名人が亡くなると、人柄を語られることが多い。
仲本工事さんのことを悪く書かれている記事は見掛けたことがない。芸能人仲間はもちろんのこと、ファンや仕事の関係者など、何がしかの交流があった一般の方も彼が怒っているところを見たことがなく、誰にでも気さくに接する優しい人でしたと悼んでいる。仲本さんが東北の被災地に訪れたときには苦労しましたねといって地域の方々をねぎらったという。
俺も常々こうありたいと思っている。
「ただ、自分に厳しい分、部下にも厳しくてね、部下がミスをするとなんでこんなことも出来なんだとみんなの前で大声を上げることもありました。だから職場では慕われていたというより恐れられていたというのが正しいでしょうね、陰では悪く言う人もいましたよ。奥さんやお子さんたちも随分苦労をしたみたいですね。晩年はお子さんも寄り付かなくなってしまい寂しかったんじゃないかな、いやいや、決して悪い人間ではないんですよ、ただ感情の表し方が下手で・・・」
「年寄りが住んでいる家の雨漏りを直したりしてね、根はいい人なんだろうけど、気が難しいところがあってね、会えば向こうから挨拶をしてくることがあるかと思えばこちらがこんにちはといっても知らんぷりのときもあった。犬の鳴き声がうるさいっていきなり乗り込まれた家もあったよ。そんなんだから町内でも孤立してしまってね、最期は連絡が取れないという妹さんが来てみたら孤独死していたんだ」
死んでからこんなことを言われるのは得てしてクソ野郎だ。どちらもフォローはされているがそれは故人へのせめてものお慰み。
たまにコメントをくれるゆい^^ちゃんは掛かりつけの美容室で働いてたアシスタントさん。当時は挨拶ぐらいしか話をしたことがなく、正直、このブログを読んでいるとも思わなかった。美容室を退店してからコメントをくれるようになり、こちらがびっくりした。
そこで思ったのはあの時、大威張りをしたり、尊大な態度を取っていなくてよかったなってこと。あいつブログでは散々いいこと書いているが人間性は最悪、ふさげんな、そう思われていたらさすがにキツい。俺は自分より年下であっても横柄な態度は取らないつもりであるし、老若男女を問わず出来るだけ誠実に接しようと「一応」は心掛けている。
しかし本当にまだまだなのだ。一応どまりである。
先日、ローソンで棚からおにぎりを取り、レジ前に並んだ。前には若いカップルが会計をしていた。
「あ、そうだ、からあげクンも買っていこうよ、すいませ~ん、からあげクンのレッド一つください」と彼女。からあげクンはそれがラスト。
お、おい、ちょっと待て、俺が今そのからあげクンを買おうとしたのだ、ふざけんな!からあげクンレッドと合うのはあまり味気のしないこの赤飯おにぎりとわかめおにぎりなんだよ、からあげクンレッドとの相乗効果を狙いあえて薄味のわかめと赤飯のおにぎりを買ったのに、なんだよ、それ、うわーっ、無茶苦茶悔しい(頭を抱えているイメージ)、俺だって本当は明太子や鮭のおにぎりが食べたいんだ、からあげクンレッドと合うおにぎりをコーディネートしただけなのにこの仕打ちっていったいなに?すっげー意味わかんねぇ。なんか俺そこまで悪いことした?あー、チキショー、お前ら二人にラリアット食らわせてぇ、そのままチョークスリーパーで気絶させてぇ、割りと真面目にそう思った。
もちろん、声に出しては言わない。舌打ちをするなど態度にも出していない。見た目は至って平静。しかし、心の中では漫画の竜巻のように罵詈雑言が吹き荒れている。

※心の中のイメージ
声にも態度にも出さなければ確かにトラブルにはならない。
でも、仲本さんであれば、「いいよ、おじさんはいつでも食べられるから。若いふたりが分け合ってからあげクンを食べ合えばそれだけで幸せな気持ちになれるもんね、いつまでも仲良くね、お幸せに」と、心の中でもそう思ったのではないかと思うのだ。
俺にはそんな了見がまるでない。たかがからあげクンでこれだ。運転中、無理な割込みをされたらあおり運転はしないが(捕まるのは嫌)、その代わり、ずーっとその車の運転手に死ねよ、死ねよ、のたうち回って苦しんで死ねよと呪いをかけている。こんなことばっかりだ。
結局本当の人間性ってこのへんだよな。なかなか達観は出来ない。