長崎原爆の日に思う
- 2022/08/09
- 12:31
先日、日本在住のウクライナ人ユーチューバーに投げ銭をした。まあ金額はたかだか千円、ただふと思ったのはこれってウクライナ人だから同情したんだろうかってこと。また、少し前、知り合いにウクライナ支援の募金を頼まれた、しっかりと立場のある人で寄付が間違いないものであるのは分かっているので財布の中から一万円札を出して、じゃあこれをといって募金箱に入れた。それだけじゃなく、コンビニでのお釣りなどもウクライナ支援の募金箱があれば積極的に入れている。
もし身近にウクライナ難民がいれば直接会いに行って幾ばくかのお金を渡したいとさえ思っている。
じゃあ、果たしてこれが東南アジアやアフリカの人たちであれば金銭の多寡はともかくとして投げ銭などしただろうかと自問自答するときがある。
正直言うと、しないんじゃないかと思っている。本当はこんなことを思っちゃいかんのだろうが南スーダンやミャンマーで市民の虐殺があったとしても所詮は対岸の火事としか思っておらず、確かに泣いている子供たちを見るとひでぇことをしやがる、可哀想だなぁとは思うものの、割りと人ごと、すぐにそんなニュースも忘れてしまう。
しかし、自分を正当化させて申し訳ないが、それは仕方のないことだと思うのだ。
全員を満遍なく支援出来れば一番良いのだろうが、そこまで人間出来ちゃいない。だって俺だもん。
ウクライナ人に手を差し伸べて、アフリカ人を見て見ぬふりしても、それは仕方のないことでしょう。開き直るつもりはないが、俺からするとアフリカ人を無視したことよりも、ウクライナ人を支援したことの方をむしろ評価してもらいたいと思っている。テレビを見て、千羽鶴を折っているパッパラパーなお花畑野郎どもよりは俺の方が何歩も先んじているとの自負さえある。
先週、とあるドキュメント番組を見ていたら日本人の歌手の人が現地に赴き、ウクライナ人の支援をしているといっていた。但し、差別に繋がるから特定の人に物やお金を支援するようなことはしないといっていた。あくまでも支援は歌を謡ったり、物資を運ぶのを手伝ったりという、腹の膨れない支援。
正直、なんだかなぁと思ったよね。手元にチョコレートが10個ある、並んでいるのは11人、どうするかってときに俺なら11番目の子が泣いたとしても10個のチョコレートを分け与える。もちろん異論はあるだろう。でも、全員に平等に配れないのは差別に繋がる、それであれば初めから誰にもあげないって本当に正しい判断なのだろうかと訝しく思う。
極端な話、10人乗っている舟が定員オーバーで沈みそう、誰か1人落とせば確実に9人は助かるって時、獲れる選択肢は誰か1人に死んでもらうか、そのまま全員仲良く沈んで海の藻屑になってもらうかという、この二つしかない。俺は1人に死んでもらう方を選びます。
金が腐るほどあってさ、人種や国籍を問わず、全員平等に支援できるのであれば結構ですけど、そういう人っていったい世の中にどれほどいるんだよって話じゃない。
こっちは年中無休の金欠でいつも金に困ってピーピーいっているのだ。出来ることなどたかが知れている。ウクライナ人を支援する理由の発端はスターリン許すまじという私怨だ。シベリア抑留や北方四島の不当占拠、とにかくロシアは許せん、だから敵の敵は味方という論理でウクライナ人を応援している。
それ以上でもそれ以下でもない。
結果的に支援に繋がればそれでいいんじゃないのかな?
東日本大震災以降、俺がよく考えるのは、「しない善よりする偽善」。
2年前、コロナの給付金として国民1人あたり一律10万円の給付があった。俺は貰わず全額寄付。すると、たぶん、お前の懐から出した金じゃねぇじゃん、それを寄付したからっていい気になってんなよというご意見もあるでしょう。確かに、その通り、俺の懐はまったく痛めていない。でも、これだって、「しない善よりする偽善」じゃないのか。うだうだケチをつけてくる連中にああだこうだ言われたくない、だって、確実に入ってくる現金を放棄したんだぜ、明日生きてさえいれば10万円をあげますと言われれば全員とは言わないが殆どの人がもらいたいだろ。俺も欲しい。その貰った金であっても、寄付をするということは一定程度の価値があると思っている。
子供が戦争のない平和な世の中になりますようにと思うのは誇らしいことだが、いい年した大人であれば仮に差別に当たるとしても出来ることをすることの方が尊いと思うのです。
間違った考え方かもしれないが改める気などさらさらナッシング。
もし身近にウクライナ難民がいれば直接会いに行って幾ばくかのお金を渡したいとさえ思っている。
じゃあ、果たしてこれが東南アジアやアフリカの人たちであれば金銭の多寡はともかくとして投げ銭などしただろうかと自問自答するときがある。
正直言うと、しないんじゃないかと思っている。本当はこんなことを思っちゃいかんのだろうが南スーダンやミャンマーで市民の虐殺があったとしても所詮は対岸の火事としか思っておらず、確かに泣いている子供たちを見るとひでぇことをしやがる、可哀想だなぁとは思うものの、割りと人ごと、すぐにそんなニュースも忘れてしまう。
しかし、自分を正当化させて申し訳ないが、それは仕方のないことだと思うのだ。
全員を満遍なく支援出来れば一番良いのだろうが、そこまで人間出来ちゃいない。だって俺だもん。
ウクライナ人に手を差し伸べて、アフリカ人を見て見ぬふりしても、それは仕方のないことでしょう。開き直るつもりはないが、俺からするとアフリカ人を無視したことよりも、ウクライナ人を支援したことの方をむしろ評価してもらいたいと思っている。テレビを見て、千羽鶴を折っているパッパラパーなお花畑野郎どもよりは俺の方が何歩も先んじているとの自負さえある。
先週、とあるドキュメント番組を見ていたら日本人の歌手の人が現地に赴き、ウクライナ人の支援をしているといっていた。但し、差別に繋がるから特定の人に物やお金を支援するようなことはしないといっていた。あくまでも支援は歌を謡ったり、物資を運ぶのを手伝ったりという、腹の膨れない支援。
正直、なんだかなぁと思ったよね。手元にチョコレートが10個ある、並んでいるのは11人、どうするかってときに俺なら11番目の子が泣いたとしても10個のチョコレートを分け与える。もちろん異論はあるだろう。でも、全員に平等に配れないのは差別に繋がる、それであれば初めから誰にもあげないって本当に正しい判断なのだろうかと訝しく思う。
極端な話、10人乗っている舟が定員オーバーで沈みそう、誰か1人落とせば確実に9人は助かるって時、獲れる選択肢は誰か1人に死んでもらうか、そのまま全員仲良く沈んで海の藻屑になってもらうかという、この二つしかない。俺は1人に死んでもらう方を選びます。
金が腐るほどあってさ、人種や国籍を問わず、全員平等に支援できるのであれば結構ですけど、そういう人っていったい世の中にどれほどいるんだよって話じゃない。
こっちは年中無休の金欠でいつも金に困ってピーピーいっているのだ。出来ることなどたかが知れている。ウクライナ人を支援する理由の発端はスターリン許すまじという私怨だ。シベリア抑留や北方四島の不当占拠、とにかくロシアは許せん、だから敵の敵は味方という論理でウクライナ人を応援している。
それ以上でもそれ以下でもない。
結果的に支援に繋がればそれでいいんじゃないのかな?
東日本大震災以降、俺がよく考えるのは、「しない善よりする偽善」。
2年前、コロナの給付金として国民1人あたり一律10万円の給付があった。俺は貰わず全額寄付。すると、たぶん、お前の懐から出した金じゃねぇじゃん、それを寄付したからっていい気になってんなよというご意見もあるでしょう。確かに、その通り、俺の懐はまったく痛めていない。でも、これだって、「しない善よりする偽善」じゃないのか。うだうだケチをつけてくる連中にああだこうだ言われたくない、だって、確実に入ってくる現金を放棄したんだぜ、明日生きてさえいれば10万円をあげますと言われれば全員とは言わないが殆どの人がもらいたいだろ。俺も欲しい。その貰った金であっても、寄付をするということは一定程度の価値があると思っている。
子供が戦争のない平和な世の中になりますようにと思うのは誇らしいことだが、いい年した大人であれば仮に差別に当たるとしても出来ることをすることの方が尊いと思うのです。
間違った考え方かもしれないが改める気などさらさらナッシング。