風邪で寝込んでいたときに書いた記事を書き直してみた
- 2022/07/29
- 22:56
先日、秋葉原通り魔事件の加藤智大の死刑が執行された、また、同日は奇しくも障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人が殺害され日から丸六年目にあたる特別な日でもある。
ネットの情報番組でも、テレビの報道番組でもそうだが、結構みんな好き勝手なことを言っている。
先日の安倍元総理殺害事件もそうだが、社会的な孤立がこういう事件を招くのだと。
確かに社会的な孤立が原因だというのはその通りだと思う。あくまでも印象論でしかないが、仕事も楽しく、週末は仲間とフットサルや河原でバーベキュー、或いは異性と映画やドライブするといった、いわゆる「リア充」、そういうリアルが充実している人がなにか世間を震撼させるような大それたことはあまりしないような気がする。
しかしながら、補足的にいえば津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は決して孤独ではなかったように思う、大麻の吸い過ぎで頭がぶっ飛んでしまってはいたが、むしろリア充の部類ではなかったか。もし仮に植松聖死刑囚がリア充であると話は違ってくるが孤独が人を追い詰めるというのは事実でもあるから植松は例外中の例外なのかもしれない。そこを踏まえたうえで先に進む。
近代以降、日本国内での無差別殺傷事件の代表は横溝正史の小説『八つ墓村』の原作にもなった津山事件であると思う。犯人の都井睦雄は結核が原因で社会から孤立、当時の結核罹患は徴兵試験にも落とされたため、都井は社会的な不適合者と政府からも烙印を押されたのと同じであった。当時は徴兵されずに済んだぜ、ラッキー、人間万事塞翁が馬といった平和ボケな感覚は微塵もない、つまり人間であることを国から否定されたのだ。その都井睦雄が獲った行動は村人たちを殺して、俺も死ぬという、身勝手極まりないある種の承認欲求。その結果、都井は最愛の祖母を含む村人30人を猟銃や斧で斬殺して、最後は自身も猟銃で胸を撃ち抜き、生涯を閉じた。
津山事件が起きたのは1938年(昭和13年)、それから80年以上経っているが、結局、社会の本質はなにも変わっていないということになる。
人が孤立しないためには、一見するとなんの生産性もない職場や近所の飲み会なんかが重要で、そこでバカ話をすることが一つの孤独解決の糸口になると、割りと真面目に語っていた識者もいたが、孤独な人はそもそもそういう場所自体が嫌いで、出掛けて行くこともないだろうから飲み会自体にまるで意味がない。
たまたま、加藤が死刑に処された同日、常磐線が急停止をした。19歳の女の子が電車に引かれて死んだという。新聞を見ても詳しいことは語られていない。詳しいことが語られない場合の多くは自殺だ。勝手なことを承知でいうと、いっちゃ悪いが19歳の女の子が自殺するような理由って俺のような世捨て人のおっさんからすると実にしょうもないことが大半だ、だって19歳の女の子が死んで詫びねばならぬほどの借金があったとは思えないし(だいたい大金を貸してくれない)、或いは故意だろが過失だろうが、誰かを殺(あや)めてしまい、お詫びに死んでケジメをつけたということでもあるまい。
有り体にいえば、自殺の原因は交友関係、異性関係、親子関係、仕事関係、まあいずれかのどれかだと思う。
こんなこと言っちゃなんだが、どれもしょうもないないんだよね。
でも、本人は途轍もなくつらいわけだ。俺が言いたいのはまさにここ。
自殺するにしろ、社会を震撼させる大事件を起こすにしろ、孤立してしまう人はどうやっても最終的には孤立してしまうってこと。
失恋して落ち込んでいる女の子に、安心しろ、世の中の半分は男だ、お前にはあと38億人以上も可能性があるといったってなんの解決にもならない。失恋の痛みを乗り切るのに必要なのは残酷だが、時間という妙薬以外はない。時が経てばなんであんな男(女)に現(うつつ)を抜かしていたんだろうと笑い話にもなるが落ち込んで涙に暮れている今は本人からすれば実に切迫した過酷な状況でしかない。
こういう鬱屈した状況を包み込むような昭和レトロな温かい雰囲気が必要だと言われたところで、的外れ過ぎて失笑以外なにも出ない。鍋を囲んで、泣いている女の子に、ほら、食べて、食べてってか?泣いている女の子も大粒の涙をボロボロこぼしながら小鉢に寄せられたタラや野菜を無言で啜る、そしておかみさんも旦那さんも顔を併せて、頷きながらほほ笑む。翌朝、夫婦が起き出してくると、昨夜泣いていたあの女の子が一生懸命に廊下を雑巾がけをしている。こんなの今どきねぇよ。三丁目の夕日かよ。
職場で落ち込んでいる人がいたら、どうしたのと声を掛けるのは大事かもしれないが、だが、落ち込んでいる理由が声を掛けたお前自身であったりすると焼け石に水どころか、もはや火に油だ。そんなことを考えると声を掛けることすらが罪悪感に苛まれそうだ。困っていそうな子に全くの善意から声を掛けただけなのに、変質者だとか、誘拐犯だとかと言われてしまうほど今の世の中は世知辛い。
絶対的にこうすれば孤独を解決するなんてものはない。ヤフーでは自殺のニュースがあると、必ずといっていいほど「いのちの電話」の番号を併せて掲載しているが、本音をいうと、そんなところに電話をして、自殺を思い留まるような奴はそもそも死ぬ気がないと思ってしまう。
こうすれば事件を防げたというものは存在しない。唯一あるとすれば殺られる前に殺れというハードボイルドな手段しかないが、カバンを持っているだけという理由で果たして山上容疑者を弾いていいものかどうか、それは逡巡以前の問題だ。
孤立や貧困が事件や自殺の引き金であるのは事実であるが、だからといって、今となってはそれを止める手立てがない。
ドライかもしれないが、放っておくしかない。その無関心が最大の病気だとヘレンケラーは言ったが、じゃあどうせいと?
なにも俺はすべてを諦めろといっているのではない。学校や職場での積極的な声掛けはするべきだと思うし、たまには飯でも食いに行こうやと、昔の友達に声を掛けてみるのもいいだろう。
だが、出来るのはやはりそれくらいだ。
ここ数年、人気芸能人の自殺が相次いだが、容姿にも才能にも恵まれ、人生を謳歌しているような人であっても闇はあるのである。
その闇を切り裂くほどの稲妻など、誰も持ち合わせていない。人の奥底に潜む深淵は親友だけじゃなく、親、兄弟、夫婦、恋人であっても見えないものなのだ。
俺は悪いがその深淵に立ち入るつもりなどさらさらない。隣の部屋から火薬や何かケミカルな臭いがすれば110番通報ぐらいはするが所詮はそれまでだ。
ネットの情報番組でも、テレビの報道番組でもそうだが、結構みんな好き勝手なことを言っている。
先日の安倍元総理殺害事件もそうだが、社会的な孤立がこういう事件を招くのだと。
確かに社会的な孤立が原因だというのはその通りだと思う。あくまでも印象論でしかないが、仕事も楽しく、週末は仲間とフットサルや河原でバーベキュー、或いは異性と映画やドライブするといった、いわゆる「リア充」、そういうリアルが充実している人がなにか世間を震撼させるような大それたことはあまりしないような気がする。
しかしながら、補足的にいえば津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は決して孤独ではなかったように思う、大麻の吸い過ぎで頭がぶっ飛んでしまってはいたが、むしろリア充の部類ではなかったか。もし仮に植松聖死刑囚がリア充であると話は違ってくるが孤独が人を追い詰めるというのは事実でもあるから植松は例外中の例外なのかもしれない。そこを踏まえたうえで先に進む。
近代以降、日本国内での無差別殺傷事件の代表は横溝正史の小説『八つ墓村』の原作にもなった津山事件であると思う。犯人の都井睦雄は結核が原因で社会から孤立、当時の結核罹患は徴兵試験にも落とされたため、都井は社会的な不適合者と政府からも烙印を押されたのと同じであった。当時は徴兵されずに済んだぜ、ラッキー、人間万事塞翁が馬といった平和ボケな感覚は微塵もない、つまり人間であることを国から否定されたのだ。その都井睦雄が獲った行動は村人たちを殺して、俺も死ぬという、身勝手極まりないある種の承認欲求。その結果、都井は最愛の祖母を含む村人30人を猟銃や斧で斬殺して、最後は自身も猟銃で胸を撃ち抜き、生涯を閉じた。
津山事件が起きたのは1938年(昭和13年)、それから80年以上経っているが、結局、社会の本質はなにも変わっていないということになる。
人が孤立しないためには、一見するとなんの生産性もない職場や近所の飲み会なんかが重要で、そこでバカ話をすることが一つの孤独解決の糸口になると、割りと真面目に語っていた識者もいたが、孤独な人はそもそもそういう場所自体が嫌いで、出掛けて行くこともないだろうから飲み会自体にまるで意味がない。
たまたま、加藤が死刑に処された同日、常磐線が急停止をした。19歳の女の子が電車に引かれて死んだという。新聞を見ても詳しいことは語られていない。詳しいことが語られない場合の多くは自殺だ。勝手なことを承知でいうと、いっちゃ悪いが19歳の女の子が自殺するような理由って俺のような世捨て人のおっさんからすると実にしょうもないことが大半だ、だって19歳の女の子が死んで詫びねばならぬほどの借金があったとは思えないし(だいたい大金を貸してくれない)、或いは故意だろが過失だろうが、誰かを殺(あや)めてしまい、お詫びに死んでケジメをつけたということでもあるまい。
有り体にいえば、自殺の原因は交友関係、異性関係、親子関係、仕事関係、まあいずれかのどれかだと思う。
こんなこと言っちゃなんだが、どれもしょうもないないんだよね。
でも、本人は途轍もなくつらいわけだ。俺が言いたいのはまさにここ。
自殺するにしろ、社会を震撼させる大事件を起こすにしろ、孤立してしまう人はどうやっても最終的には孤立してしまうってこと。
失恋して落ち込んでいる女の子に、安心しろ、世の中の半分は男だ、お前にはあと38億人以上も可能性があるといったってなんの解決にもならない。失恋の痛みを乗り切るのに必要なのは残酷だが、時間という妙薬以外はない。時が経てばなんであんな男(女)に現(うつつ)を抜かしていたんだろうと笑い話にもなるが落ち込んで涙に暮れている今は本人からすれば実に切迫した過酷な状況でしかない。
こういう鬱屈した状況を包み込むような昭和レトロな温かい雰囲気が必要だと言われたところで、的外れ過ぎて失笑以外なにも出ない。鍋を囲んで、泣いている女の子に、ほら、食べて、食べてってか?泣いている女の子も大粒の涙をボロボロこぼしながら小鉢に寄せられたタラや野菜を無言で啜る、そしておかみさんも旦那さんも顔を併せて、頷きながらほほ笑む。翌朝、夫婦が起き出してくると、昨夜泣いていたあの女の子が一生懸命に廊下を雑巾がけをしている。こんなの今どきねぇよ。三丁目の夕日かよ。
職場で落ち込んでいる人がいたら、どうしたのと声を掛けるのは大事かもしれないが、だが、落ち込んでいる理由が声を掛けたお前自身であったりすると焼け石に水どころか、もはや火に油だ。そんなことを考えると声を掛けることすらが罪悪感に苛まれそうだ。困っていそうな子に全くの善意から声を掛けただけなのに、変質者だとか、誘拐犯だとかと言われてしまうほど今の世の中は世知辛い。
絶対的にこうすれば孤独を解決するなんてものはない。ヤフーでは自殺のニュースがあると、必ずといっていいほど「いのちの電話」の番号を併せて掲載しているが、本音をいうと、そんなところに電話をして、自殺を思い留まるような奴はそもそも死ぬ気がないと思ってしまう。
こうすれば事件を防げたというものは存在しない。唯一あるとすれば殺られる前に殺れというハードボイルドな手段しかないが、カバンを持っているだけという理由で果たして山上容疑者を弾いていいものかどうか、それは逡巡以前の問題だ。
孤立や貧困が事件や自殺の引き金であるのは事実であるが、だからといって、今となってはそれを止める手立てがない。
ドライかもしれないが、放っておくしかない。その無関心が最大の病気だとヘレンケラーは言ったが、じゃあどうせいと?
なにも俺はすべてを諦めろといっているのではない。学校や職場での積極的な声掛けはするべきだと思うし、たまには飯でも食いに行こうやと、昔の友達に声を掛けてみるのもいいだろう。
だが、出来るのはやはりそれくらいだ。
ここ数年、人気芸能人の自殺が相次いだが、容姿にも才能にも恵まれ、人生を謳歌しているような人であっても闇はあるのである。
その闇を切り裂くほどの稲妻など、誰も持ち合わせていない。人の奥底に潜む深淵は親友だけじゃなく、親、兄弟、夫婦、恋人であっても見えないものなのだ。
俺は悪いがその深淵に立ち入るつもりなどさらさらない。隣の部屋から火薬や何かケミカルな臭いがすれば110番通報ぐらいはするが所詮はそれまでだ。