政治家たるもの、凶弾に倒れる覚悟は持つぺし
- 2022/07/10
- 14:17
日本国内に於ける初めての政治テロとは桜田門外の変のだと思う。もちろん、歴史に詳しい方からすれば様々な異論があるとは思うが、大老を現代の内閣総理大臣だとするならばやはりここが一つの分水嶺なのではないかと思うのです。
確かに桜田門外の変以前にも武将や貴族が政敵である近親者を殺害したり、放逐したりということは当たり前のようにあったであろうし、現在放映中の大河ドラマ鎌倉殿の源頼朝も一説には暗殺だと言われている。また、明治天皇の父である孝明天皇はヒ素を大久保利通や西郷隆盛らの策略によって飲まされ続け、実態は自然死に見せかけられた暗殺だという説もまことしやかに語られている。
しかし、明確な意志をもって、政治家を殺害しようとしたのはやはり水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が初めてではないのかと思う(さらにそこから、老中安藤信正を襲撃し、負傷させた坂下門外の変へと続く)。
その桜田門外の変は1860年、それから今日まで凡そ160年、内務卿大久保利通の暗殺に続き、初代内閣総理大臣伊藤博文の暗殺、命は助かったものの、板垣退助や大隈重信への襲撃事件(大隈は片足切断の重傷)、5.15事件の犬養毅総理大臣殺害、2.26事件の高橋是清蔵相殺害、1960年の社会党党首浅沼稲次郎殺害事件、そして、今回の安倍元総理の殺害事件と、定期的に政治家へのテロ行為というものが続く。
果たして今回の安倍元総理殺害が浅沼稲次郎殺害事件のように明確な政治的な意図があって犯行が行われたかというと、現在の報道を見る限り、それは微妙な感もあり、単なる一方的な思い込みによる私怨の線が強いと思われるが、結局なにが言いたいのかというと、言論に対する如何なる暴力も許すことは出来ないが、でも、政治家たるもの、常日頃から死を覚悟して、政治活動をするべきだと思うである。
天皇陛下の行幸啓、警備の人数は通常、1000人単位だ。数日前から沿道に不審物はないか、徹底した確認作業。爆発物をしかけられやすい自販機などのゴミ箱はすべて撤去、公衆電話ボックスもテープでぐるぐる巻きにして入れないようにする。狙撃に好都合なビルの屋上や入口には警察官を配して、スナイパーの立ち入りを制御する。地上だけではない、ヘリコプターが旋回し、不審な車や人を空からも監視をする。
それでも陛下は車の窓を開けて市民に手を振られるのである。
結城市への行幸啓時に、俺もお出迎え、お見送りに参加させて頂きましたが、上皇陛下も美智子さまも車の窓を開けて市民に手を振られるのである。
茨城県警が千人単位の警備をしようとも、御料車であるトヨタセンチュリーが防弾ガラスと鉄板で覆われた世界屈指の安全な車両であろうとも、窓を開けられたらこれはテロを防ぎようがない。
この時、俺が現場で見ていて思ったのは、陛下の天皇としてのお覚悟だろうと。
徒歩での移動は防弾チョッキを着たSPが四方を取り囲み、一切の隙間を見せず、陛下と並行して歩く、車の窓は絶対に開けず、手を振るのはあくまでも車の中から、ここまですれば極めて安心安全だと思うが、果たしてこれが国民に寄り添う天皇の在り方として正しいのかという疑問が陛下にも美智子さまもあるのではないのかと思うのです。言葉にするのも憚られるが、仮に窓を開けて手を振っているところを狙撃され、凶弾に命を落とすようなことになったとしても、それは天皇としての天命であると、常日頃からお覚悟を決めているのではないかと思うのです。
政治家に限らず、誰だって凶弾、凶刃になど、倒れたくない。
だが、政治家たるもの、命を捨てる覚悟って絶対に必要だと思うのです。
むろん、暴力行為には断固対抗するべきであるし、出来る限りの警護はすべきである。不審者がいれば職務質問をするのは当然だ。
ただ、言うまでもなく限界はある。誰彼問わず声を掛けてボディチェックなんかできっこない。
では、安全を最優先するあまり、唯一、市民との対話の場である選挙活動が、テレビやネットだけになってしまったり、或いは防弾ガラスで出来た箱の中から政策を訴えるというのはさすがに違うでしょう。
政策というものが万人に対する特効薬ということは絶対にない。大半の政策は誰かが笑う反面、誰かは泣くのである。泣いた者が怒りの矛先を政治家に向けるということはこれからもなくならないだろう。
政治家ならぬ、政治屋になり、利権を得て美味しい汁を啜ろうと思っている不逞不遜の輩が国会議員だけでなく、地方議員にもかなりいると思われるが、政治家だろうが、政治屋だろうが、命を捨てる覚悟だけは持ち続けるべきだと思うのです。それが出来ぬのなら政治家などさっさと辞めてしまえとすら思う。
暴力は民主主義に対する挑戦状であり、決して許されざる暴挙と、ひとまとめにしてしまうのは至極簡単だと思いますが、いくら政治に無関心な世の中といえど、一定数は自己の主義主張のためであれば、仮にそれが間違った行動原理であったとしても、命を賭してあいつのタマを獲ってやろうと思う人がいるのもまた事実なのである。
かつて、長崎市長の本島等氏が右翼団体幹部に銃撃され、全治一か月の重傷を負った事件がある。本島氏と右翼団体との間に公共事業などでなにか利害関係があったわけではなく、事件の発端は「昭和天皇にも戦争責任はあると思う」との発言。
幸いにも本島氏は一命を取り留めたが、利害関係を超越した発言だけで行動を起こす人間がいるのも事実なのだ。
さてと、なんだか長くなった。ど~れ、選挙に行ってきますかね。
確かに桜田門外の変以前にも武将や貴族が政敵である近親者を殺害したり、放逐したりということは当たり前のようにあったであろうし、現在放映中の大河ドラマ鎌倉殿の源頼朝も一説には暗殺だと言われている。また、明治天皇の父である孝明天皇はヒ素を大久保利通や西郷隆盛らの策略によって飲まされ続け、実態は自然死に見せかけられた暗殺だという説もまことしやかに語られている。
しかし、明確な意志をもって、政治家を殺害しようとしたのはやはり水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が初めてではないのかと思う(さらにそこから、老中安藤信正を襲撃し、負傷させた坂下門外の変へと続く)。
その桜田門外の変は1860年、それから今日まで凡そ160年、内務卿大久保利通の暗殺に続き、初代内閣総理大臣伊藤博文の暗殺、命は助かったものの、板垣退助や大隈重信への襲撃事件(大隈は片足切断の重傷)、5.15事件の犬養毅総理大臣殺害、2.26事件の高橋是清蔵相殺害、1960年の社会党党首浅沼稲次郎殺害事件、そして、今回の安倍元総理の殺害事件と、定期的に政治家へのテロ行為というものが続く。
果たして今回の安倍元総理殺害が浅沼稲次郎殺害事件のように明確な政治的な意図があって犯行が行われたかというと、現在の報道を見る限り、それは微妙な感もあり、単なる一方的な思い込みによる私怨の線が強いと思われるが、結局なにが言いたいのかというと、言論に対する如何なる暴力も許すことは出来ないが、でも、政治家たるもの、常日頃から死を覚悟して、政治活動をするべきだと思うである。
天皇陛下の行幸啓、警備の人数は通常、1000人単位だ。数日前から沿道に不審物はないか、徹底した確認作業。爆発物をしかけられやすい自販機などのゴミ箱はすべて撤去、公衆電話ボックスもテープでぐるぐる巻きにして入れないようにする。狙撃に好都合なビルの屋上や入口には警察官を配して、スナイパーの立ち入りを制御する。地上だけではない、ヘリコプターが旋回し、不審な車や人を空からも監視をする。
それでも陛下は車の窓を開けて市民に手を振られるのである。
結城市への行幸啓時に、俺もお出迎え、お見送りに参加させて頂きましたが、上皇陛下も美智子さまも車の窓を開けて市民に手を振られるのである。
茨城県警が千人単位の警備をしようとも、御料車であるトヨタセンチュリーが防弾ガラスと鉄板で覆われた世界屈指の安全な車両であろうとも、窓を開けられたらこれはテロを防ぎようがない。
この時、俺が現場で見ていて思ったのは、陛下の天皇としてのお覚悟だろうと。
徒歩での移動は防弾チョッキを着たSPが四方を取り囲み、一切の隙間を見せず、陛下と並行して歩く、車の窓は絶対に開けず、手を振るのはあくまでも車の中から、ここまですれば極めて安心安全だと思うが、果たしてこれが国民に寄り添う天皇の在り方として正しいのかという疑問が陛下にも美智子さまもあるのではないのかと思うのです。言葉にするのも憚られるが、仮に窓を開けて手を振っているところを狙撃され、凶弾に命を落とすようなことになったとしても、それは天皇としての天命であると、常日頃からお覚悟を決めているのではないかと思うのです。
政治家に限らず、誰だって凶弾、凶刃になど、倒れたくない。
だが、政治家たるもの、命を捨てる覚悟って絶対に必要だと思うのです。
むろん、暴力行為には断固対抗するべきであるし、出来る限りの警護はすべきである。不審者がいれば職務質問をするのは当然だ。
ただ、言うまでもなく限界はある。誰彼問わず声を掛けてボディチェックなんかできっこない。
では、安全を最優先するあまり、唯一、市民との対話の場である選挙活動が、テレビやネットだけになってしまったり、或いは防弾ガラスで出来た箱の中から政策を訴えるというのはさすがに違うでしょう。
政策というものが万人に対する特効薬ということは絶対にない。大半の政策は誰かが笑う反面、誰かは泣くのである。泣いた者が怒りの矛先を政治家に向けるということはこれからもなくならないだろう。
政治家ならぬ、政治屋になり、利権を得て美味しい汁を啜ろうと思っている不逞不遜の輩が国会議員だけでなく、地方議員にもかなりいると思われるが、政治家だろうが、政治屋だろうが、命を捨てる覚悟だけは持ち続けるべきだと思うのです。それが出来ぬのなら政治家などさっさと辞めてしまえとすら思う。
暴力は民主主義に対する挑戦状であり、決して許されざる暴挙と、ひとまとめにしてしまうのは至極簡単だと思いますが、いくら政治に無関心な世の中といえど、一定数は自己の主義主張のためであれば、仮にそれが間違った行動原理であったとしても、命を賭してあいつのタマを獲ってやろうと思う人がいるのもまた事実なのである。
かつて、長崎市長の本島等氏が右翼団体幹部に銃撃され、全治一か月の重傷を負った事件がある。本島氏と右翼団体との間に公共事業などでなにか利害関係があったわけではなく、事件の発端は「昭和天皇にも戦争責任はあると思う」との発言。
幸いにも本島氏は一命を取り留めたが、利害関係を超越した発言だけで行動を起こす人間がいるのも事実なのだ。
さてと、なんだか長くなった。ど~れ、選挙に行ってきますかね。