学問の要不要
- 2022/05/25
- 11:24
『「貴重な10代の大事な日々をsin、cosに捧げておりました。受験の翌日以降、この20年ほどsin、cosは一度も使っておりません。あの日々は一体なんだったのか」。
17日の衆院財務金融委員会で文部科学官僚を相手にそんな問題提起をしたのは、日本維新の会の藤巻健太衆議院議員だ。
藤巻議員のツイート
自身は数学が得意で、三角関数の学習自体を否定するつもりはないとした上で、「全国の高校生にがっつりと教え込む必要があるのか。その分野に進む人たちが専門知識として学ぶものではないか」と主張、資源もなく、少子高齢化が進む日本が発展を続けるためには金融立国、ひいては金融教育の充実が重要だと訴えた。』
(ヤフーニュース)
これ、正直いつも考えさせられる。
詳しくは知りませんが、現在は測量でも三角関数を用いるということは少ないのかな。今どきであると、恐らく数値をソフトに入力するだけで距離は測定することが出来るのだと思う。実際に測量士さんを見ているとタブレットに数値らしきものを入力している、まったく違っていたらすいません。
自分に当てはめてみて役に立っている学問は読み書きをする国語とサイトを制作する時に必要な中学生レベルの簡単な英語ぐらいで後は殆ど使わない。一応、社会科は好きだから未だに色々読んだり見たりしているがそれだって単なる自己満足の世界、実生活に役立っているかと言われると特に役立っているという印象はない。近所の居酒屋で物知りと誉められるぐらいだ。
でも俺は学問って絶対に必要だと思う。もちろん、現代にそぐわないものはある程度任意にすべきだと思うが、一見すると無駄な学問でもそれが人間の幸せに結びつく場合がある。
たとえばてんとう虫に魅了され、てんとう虫を終生の課題として研究している学者さんも世の中にはおられると思う。我々、市井の人からするとてんとう虫に対してなんの感慨も湧かないがもしかするとてんとう虫からヒントを得た効率的な飛行システムが生まれるかもしれないし、てんとう虫の体内から分泌される何かしらの物質が難病の治療薬に変貌するかもしれない。
事実、ミツバチの巣からヒントを得た六角形のハニカム構造は軽量で強度が強いことから航空機の素材に使われているし、蚊の吸血方法をヒントに痛くない注射針が開発された、最近では蚕から経口型のワクチンが出来るんじゃないかと言われている。とにかく、この手の話は枚挙にいとまがない。
もちろん、なにも目新しいことを発見できずに学者人生を終えることも当然ある、むしろそっちの方が多いか。学問って割りとこんなものじゃないかと思うのです。
義務教育で習うことの恐らく半分以上はその後の人生に於いて必要のない知識、ましてや今はスマホで検索すれば大抵のことは調べられる。必死こいて鉄砲伝来を1543年を「以後(15)刀は要さん(43)」と覚える必要もない気がする。
しかし、たとえ無駄なことであっても三角関数を知っているのといないのとでは人間の考え方のふり幅が大きく異なると思う。
浜辺に立ち、水平線の彼方を見ている、あの彼方まではいったいどれぐらいの距離があるのか、ふと、そう思ったとする。
見ているのが身長170cmの人であれば海抜によっての誤差もあるがだいたい水平線までの距離は4~5km、三角関数を知らなければ実際に舟で水平線の彼方まで行って距離を測るしかないが、三角関数を知っていれば、なるほど、それで4~5kmと計算することが出来るのかと、実際の計算式は分らぬとも、朧気ながらなんとなく概念として理解できる。そもそも三角関数を知らない人には説明がつかない。
明らかにこれは必要ないだろうというもの以外は慌てて学習指導要領を変える必要がないように思う。少し前にも漢文は義務教育として必要か不必要かという議論がなされたことがあるが、これも同じように必要。漢文を学ぶことによって、中国文化への造詣を深め、将来中国への関心を深めることもできる。 関心が高まれば本格的に中国語を学んで外交官になろうという人も出てくるだろうし、中国とビジネスをしたいと思う人も現れるだろう、或いは中国文化を知ることによって中国をぶっ叩くのにはどうすればいいのかと政治家を目指す人も現れるかもしれない。だから必要。
だが、こんなことを言うと、別に中国文化を知る足掛かりにしたいのであれば三国志や水滸伝の漫画でも読んでりゃいいんじゃないですか、或いはカンフー映画だっていいですし、文化を知るのであれば中国発のモバゲーだって、中華料理だっていいんじゃないですかとなるが、本当にここが忸怩たるべきところで、確かに李白の七言絶句から入らなくても中国文化については学べると言われると、そう。結局入試に出るから勉強するだけであまり意味がない。個人的に意味があったのは不忍池って、これは漢文読みをしてるんだな、不と忍との間にレ点を入れるのかと思っただけ。上野動物園に行ったとき、なんとなくそんなことを思った記憶がある。
あくまでも単なる暇つぶしではあるが、本日、書店で世界地図形式になっている高校地理の参考書を買った。
『英、モルドバに近代兵器供与の構え』(ロイター)
早速、参考書でモルドバを調べてみた。モルドバがどこにあるのか今の今まで知らず、今日初めてウクライナとルーマニアの間の国なのかということを知った。モルドバを知らなくとも今後の人生に於いてほぼなにも影響はないと思うが、知的好奇心を満たす意味では役に立った。
学問については考えだすとキリがないからあまり深くは考えないようにしている。考えだすと最終的には人は何故生きるのかという哲学にぶち当たってしまう。生きるだけなら産業を拡大せずとも自給自足でいいのではないか、そうなると、なんで生きねばならんのか、人間が存在する意味がないのではないのか、いやいや地球そのものがいらないといった、答えの出ない迷宮に入り込み、地球や宇宙の存在意義まで考えだしてしまう。
では、話をそこまで飛躍させずに、学問だけに焦点を当て、三角関数を知った方がより視野が広がり、幸せになれるといったところで、三角関数を知らない途上国の人たちは不幸せなのかといえば決してそんなこともないだろう。だいたい三角関数を使うのは三角関数を教える教師と生徒だけという禅問答みたいな答えになってしまう。
だから、とりあえず入試のためであってもいいし、或いは本当に好きで自発的に学びたいと思ってもいいし、まずは触れてみて、いるいらないは自分で判断してみればいいんじゃないのと思うのです、漢文も然りで。
17日の衆院財務金融委員会で文部科学官僚を相手にそんな問題提起をしたのは、日本維新の会の藤巻健太衆議院議員だ。
藤巻議員のツイート
自身は数学が得意で、三角関数の学習自体を否定するつもりはないとした上で、「全国の高校生にがっつりと教え込む必要があるのか。その分野に進む人たちが専門知識として学ぶものではないか」と主張、資源もなく、少子高齢化が進む日本が発展を続けるためには金融立国、ひいては金融教育の充実が重要だと訴えた。』
(ヤフーニュース)
これ、正直いつも考えさせられる。
詳しくは知りませんが、現在は測量でも三角関数を用いるということは少ないのかな。今どきであると、恐らく数値をソフトに入力するだけで距離は測定することが出来るのだと思う。実際に測量士さんを見ているとタブレットに数値らしきものを入力している、まったく違っていたらすいません。
自分に当てはめてみて役に立っている学問は読み書きをする国語とサイトを制作する時に必要な中学生レベルの簡単な英語ぐらいで後は殆ど使わない。一応、社会科は好きだから未だに色々読んだり見たりしているがそれだって単なる自己満足の世界、実生活に役立っているかと言われると特に役立っているという印象はない。近所の居酒屋で物知りと誉められるぐらいだ。
でも俺は学問って絶対に必要だと思う。もちろん、現代にそぐわないものはある程度任意にすべきだと思うが、一見すると無駄な学問でもそれが人間の幸せに結びつく場合がある。
たとえばてんとう虫に魅了され、てんとう虫を終生の課題として研究している学者さんも世の中にはおられると思う。我々、市井の人からするとてんとう虫に対してなんの感慨も湧かないがもしかするとてんとう虫からヒントを得た効率的な飛行システムが生まれるかもしれないし、てんとう虫の体内から分泌される何かしらの物質が難病の治療薬に変貌するかもしれない。
事実、ミツバチの巣からヒントを得た六角形のハニカム構造は軽量で強度が強いことから航空機の素材に使われているし、蚊の吸血方法をヒントに痛くない注射針が開発された、最近では蚕から経口型のワクチンが出来るんじゃないかと言われている。とにかく、この手の話は枚挙にいとまがない。
もちろん、なにも目新しいことを発見できずに学者人生を終えることも当然ある、むしろそっちの方が多いか。学問って割りとこんなものじゃないかと思うのです。
義務教育で習うことの恐らく半分以上はその後の人生に於いて必要のない知識、ましてや今はスマホで検索すれば大抵のことは調べられる。必死こいて鉄砲伝来を1543年を「以後(15)刀は要さん(43)」と覚える必要もない気がする。
しかし、たとえ無駄なことであっても三角関数を知っているのといないのとでは人間の考え方のふり幅が大きく異なると思う。
浜辺に立ち、水平線の彼方を見ている、あの彼方まではいったいどれぐらいの距離があるのか、ふと、そう思ったとする。
見ているのが身長170cmの人であれば海抜によっての誤差もあるがだいたい水平線までの距離は4~5km、三角関数を知らなければ実際に舟で水平線の彼方まで行って距離を測るしかないが、三角関数を知っていれば、なるほど、それで4~5kmと計算することが出来るのかと、実際の計算式は分らぬとも、朧気ながらなんとなく概念として理解できる。そもそも三角関数を知らない人には説明がつかない。
明らかにこれは必要ないだろうというもの以外は慌てて学習指導要領を変える必要がないように思う。少し前にも漢文は義務教育として必要か不必要かという議論がなされたことがあるが、これも同じように必要。漢文を学ぶことによって、中国文化への造詣を深め、将来中国への関心を深めることもできる。 関心が高まれば本格的に中国語を学んで外交官になろうという人も出てくるだろうし、中国とビジネスをしたいと思う人も現れるだろう、或いは中国文化を知ることによって中国をぶっ叩くのにはどうすればいいのかと政治家を目指す人も現れるかもしれない。だから必要。
だが、こんなことを言うと、別に中国文化を知る足掛かりにしたいのであれば三国志や水滸伝の漫画でも読んでりゃいいんじゃないですか、或いはカンフー映画だっていいですし、文化を知るのであれば中国発のモバゲーだって、中華料理だっていいんじゃないですかとなるが、本当にここが忸怩たるべきところで、確かに李白の七言絶句から入らなくても中国文化については学べると言われると、そう。結局入試に出るから勉強するだけであまり意味がない。個人的に意味があったのは不忍池って、これは漢文読みをしてるんだな、不と忍との間にレ点を入れるのかと思っただけ。上野動物園に行ったとき、なんとなくそんなことを思った記憶がある。
あくまでも単なる暇つぶしではあるが、本日、書店で世界地図形式になっている高校地理の参考書を買った。
『英、モルドバに近代兵器供与の構え』(ロイター)
早速、参考書でモルドバを調べてみた。モルドバがどこにあるのか今の今まで知らず、今日初めてウクライナとルーマニアの間の国なのかということを知った。モルドバを知らなくとも今後の人生に於いてほぼなにも影響はないと思うが、知的好奇心を満たす意味では役に立った。
学問については考えだすとキリがないからあまり深くは考えないようにしている。考えだすと最終的には人は何故生きるのかという哲学にぶち当たってしまう。生きるだけなら産業を拡大せずとも自給自足でいいのではないか、そうなると、なんで生きねばならんのか、人間が存在する意味がないのではないのか、いやいや地球そのものがいらないといった、答えの出ない迷宮に入り込み、地球や宇宙の存在意義まで考えだしてしまう。
では、話をそこまで飛躍させずに、学問だけに焦点を当て、三角関数を知った方がより視野が広がり、幸せになれるといったところで、三角関数を知らない途上国の人たちは不幸せなのかといえば決してそんなこともないだろう。だいたい三角関数を使うのは三角関数を教える教師と生徒だけという禅問答みたいな答えになってしまう。
だから、とりあえず入試のためであってもいいし、或いは本当に好きで自発的に学びたいと思ってもいいし、まずは触れてみて、いるいらないは自分で判断してみればいいんじゃないのと思うのです、漢文も然りで。