小学生が命の授業を学ぶ意味って?
- 2022/03/16
- 14:05
先日、確かNHKだったと思うのだが、ニュースの一コマで命の授業と称し、合鴨を飼育している小学生たちが特集されていた。
合鴨をヒヨコの段階から愛情をもって飼育する、そして成長したその合鴨を最終的には調理して皆で食べるという。
中には悲しくて号泣する子もいた。
正直、これって必要あるのかって思う。またしても自分を基準にして申し訳ないが、自分が食べるために生き物を飼育したことは生まれてこの方50年近く経つが未だかつて一度もない、しかし、命を頂くことのありがたみはよく分かっているつもりであるし、今も多数の熱帯魚、金魚、メダカを飼育しているが、命の大切さを弁えているからこそ、餌をやったり、水を取り替えたりしている。
つまり、実際に育てた合鴨をバラして食べるという経験がなくても、自己弁護をさせてもらえるのであれば、一応人並み程度には命の尊さを弁えているつもりだ。これでなにかまずいのか?
号泣していた子があの後、果たして合鴨を頂いたのかどうかは分からないが、もし仮にこの経験がトラウマになり、動物性たんぱく質を食べられなくなったらそれこそ成長にも影響するから深刻だと思う。
また、この命の授業の問題は文科省からの指示で、全児童が一律に学ぶのであればまだしも、学ぶのは一部の小学校のみ、じゃあ、この命の授業を受けていない大部分の子たちは命に対してなんら尊厳のない、軽薄な人間ばかりなのかといえば恐らくだが、そういったエビデンスってなにもないと思う。
更に意地悪なことをいえば、自我形成が発展途上のときに、命の授業を受けると、却って、人間をも含め、生き物を殺すことへの罪悪感が著しく欠如してしまうことも可能性としては決してゼロじゃないだろう。
また、根本的な問題としてあるのが、動物の種類によって罪悪感の捉え方という問題もある。魚介類であればなんの罪悪感も感じず、平気で活け造りのお刺身を食べることは出来るが哺乳類や鳥類だとひどく罪悪感を覚えるという問題もある。
命という意味では本来、魚も哺乳類も同じ命である。魚は殺しても平気、合鴨を殺すのは可哀想、この感覚って現代人としては自然な感覚である反面、考えようによってはひどくエゴイスティックな考えだともいえる。果たして魚にどれだけの感情があるのかは分からないが、殺しても平気という短絡的な理由で躊躇なく殺されてしまう魚は気の毒ともいえる。
生きたウナギを動かぬよう、頭をキリでまな板に突き刺し、そのままウナギを捌いていく、これを見て残酷と思うのか、旨そうと思うのかは個人の裁量によって委ねられるが、うなぎ屋さんが動物愛護団体から訴えられたという話は聞いたことがないし、シーシェパードやグリーンピースに嫌がらせを受けた話も聞いたことはないので、それは許されるということなのだろう。
そうなると益々分からなくなるのがイルカやクジラを獲ることと、生きたウナギを捌くこととの差異。命は平等ではないと?単純にイルカは可愛い、ウナギは可愛くないという極めて主観的な価値観のみで差をつけているに過ぎない。本来、捕鯨を妨害するならうなぎ屋さんの営業を妨害しないとやっていることの整合性が取れない。もちろんだからといってうなぎ屋さんの営業を妨害しろという話ではない。それは絶対にやめろ、俺が困る。
じゃあ、飼育している動物を殺して食べることを学ぶ必要がまったくないのかといえばそれは違う、確実に必要はある。ただ、それは道徳の授業のときに、イラストなどで説明すればいいだろう。わざわざ残酷なシーンを写真や動画で見せる必要ってないと思う。そのうえで将来畜産関係の仕事をしたいと考えている子は農業高校や大学の畜産科に進んで、屠殺について、本格的に学べばいいと思う。
合鴨をヒヨコの段階から愛情をもって飼育する、そして成長したその合鴨を最終的には調理して皆で食べるという。
中には悲しくて号泣する子もいた。
正直、これって必要あるのかって思う。またしても自分を基準にして申し訳ないが、自分が食べるために生き物を飼育したことは生まれてこの方50年近く経つが未だかつて一度もない、しかし、命を頂くことのありがたみはよく分かっているつもりであるし、今も多数の熱帯魚、金魚、メダカを飼育しているが、命の大切さを弁えているからこそ、餌をやったり、水を取り替えたりしている。
つまり、実際に育てた合鴨をバラして食べるという経験がなくても、自己弁護をさせてもらえるのであれば、一応人並み程度には命の尊さを弁えているつもりだ。これでなにかまずいのか?
号泣していた子があの後、果たして合鴨を頂いたのかどうかは分からないが、もし仮にこの経験がトラウマになり、動物性たんぱく質を食べられなくなったらそれこそ成長にも影響するから深刻だと思う。
また、この命の授業の問題は文科省からの指示で、全児童が一律に学ぶのであればまだしも、学ぶのは一部の小学校のみ、じゃあ、この命の授業を受けていない大部分の子たちは命に対してなんら尊厳のない、軽薄な人間ばかりなのかといえば恐らくだが、そういったエビデンスってなにもないと思う。
更に意地悪なことをいえば、自我形成が発展途上のときに、命の授業を受けると、却って、人間をも含め、生き物を殺すことへの罪悪感が著しく欠如してしまうことも可能性としては決してゼロじゃないだろう。
また、根本的な問題としてあるのが、動物の種類によって罪悪感の捉え方という問題もある。魚介類であればなんの罪悪感も感じず、平気で活け造りのお刺身を食べることは出来るが哺乳類や鳥類だとひどく罪悪感を覚えるという問題もある。
命という意味では本来、魚も哺乳類も同じ命である。魚は殺しても平気、合鴨を殺すのは可哀想、この感覚って現代人としては自然な感覚である反面、考えようによってはひどくエゴイスティックな考えだともいえる。果たして魚にどれだけの感情があるのかは分からないが、殺しても平気という短絡的な理由で躊躇なく殺されてしまう魚は気の毒ともいえる。
生きたウナギを動かぬよう、頭をキリでまな板に突き刺し、そのままウナギを捌いていく、これを見て残酷と思うのか、旨そうと思うのかは個人の裁量によって委ねられるが、うなぎ屋さんが動物愛護団体から訴えられたという話は聞いたことがないし、シーシェパードやグリーンピースに嫌がらせを受けた話も聞いたことはないので、それは許されるということなのだろう。
そうなると益々分からなくなるのがイルカやクジラを獲ることと、生きたウナギを捌くこととの差異。命は平等ではないと?単純にイルカは可愛い、ウナギは可愛くないという極めて主観的な価値観のみで差をつけているに過ぎない。本来、捕鯨を妨害するならうなぎ屋さんの営業を妨害しないとやっていることの整合性が取れない。もちろんだからといってうなぎ屋さんの営業を妨害しろという話ではない。それは絶対にやめろ、俺が困る。
じゃあ、飼育している動物を殺して食べることを学ぶ必要がまったくないのかといえばそれは違う、確実に必要はある。ただ、それは道徳の授業のときに、イラストなどで説明すればいいだろう。わざわざ残酷なシーンを写真や動画で見せる必要ってないと思う。そのうえで将来畜産関係の仕事をしたいと考えている子は農業高校や大学の畜産科に進んで、屠殺について、本格的に学べばいいと思う。