墓
- 2022/03/09
- 13:18
石原慎太郎氏の遺言は「墓はいらない」だそうだ。
石原家の墓事情はともかく、お墓って結局生きている人のためにあるんだよなと、俺はそう認識している。とはいえ、そんなことを思ったのもここ数年の話。
兄貴分のIさんが亡くなって以来、命日の墓参は欠かしていない。Iさんが好きだった日本酒のワンカップを備え、俺は運転のため、酒の代わりに缶コーヒーの口を開け、行儀は悪いが、墓前にあぐらをかいて暫し語らう。内容は近況報告であったり、愚痴であったり、バカ話であったり、なんでこんなに早く死んでしまったんですかという怒りや寂しさだったり、他愛のないといえば他愛のない話。
正直、Iさんが亡くなるまでは父方にせよ、母方にせよ、お墓なんてものは骨壺を収めるための儀礼的なものぐらいにしか思っていなかった。もちろん、お盆やお彼岸にお参りはするものの、特にこれといった感情はなく、墓石に水を掛け、花を供え、線香に火を点けて手を合わせる、ご先祖様たちには申し訳ないがいわゆるルーティンワークだ。
しかし、Iさんのお墓を見たとき、そういうルーティンを超越した温かいものを感じたのである。
身も蓋もないことを言えばすべての生きとし生ける物は死んだら土に帰るだけ、大団円を迎えた理想的な死に方であっても、或いは言葉にするのも憚られるほどの悲惨な死に方であっても、死んでしまえば骨となるだけ。骨になにか意志があるかといえば当然ない(と思う)。
心臓の鼓動が停まり、火葬して骨になると、その人の人生はそこでお終い、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、これではあんまりだ。あまりにも虚しすぎる。だからこそ、人は墓石を立て、故人を忘れないようにする、中には生前故人に散々迷惑を掛けられ、含むものがあったとしても世間体のためだけにお墓を建てる人もいるだろう。故人への向き合い方は人それぞれであり、なにが正しくてなにが正しくないということもない。日本人の儀礼として無感情のまま、お盆やお彼岸に線香を上げるのもそれはそれであるし、お墓に向かって俺のように語らうのもそれはそれだろう。また、石原氏の遺言が履行されたかどうかは分からないが、墓仕舞いをしたり、墓石を立てず散骨をしてお仕舞いという弔い方であってもそれはそれなのだ。
ただ、いずれにしても残された人の心の問題である。
間もなく、震災から11年を迎える。
「早く支度しなさい、遅刻するわよ」、「いってきま~す」、3月11日の朝、いつもより寒い朝ではあったが、何一つ変わらない日常を人は送っていたはずである。まさかこの会話が今生の別れになるとは誰も知る由がない。それから数時間後、世界中を震撼させる未曽有の悲劇が訪れる。
震災で親族を亡くした方の中にはまだ遺骨が見つかっていないという理由でお墓を立てていない人もいるでしょうし、11年経っても未だに死と向き合えないという人もいるでしょう、また、お墓を建てようにも避難指示区域に先祖代々の墓地があるため、建てようにも建てられないでいるということもあると思う。
ゆえに、一括りになにが正解かなんてことは言えない。
それでも一ついえることはあくまでも俺の場合であるが、兄貴のお墓があることで俺自身が救われている。俺と兄貴とを結ぶ点として墓標があればいい。傲慢な考えではあるが、俺だけが兄貴のお墓を見て救われればそれでよく、兄貴のご家族を含め、ほかの人がどういう思いを抱いているのか知る必要もないなけりゃ、興味もない。故人への思いというものは兄貴のお墓と向き合った各々が自分の中で考えればいいこと。
俺は8月2日の命日に墓参をして、一年を振り返り、帰るときにはまた一年頑張ってみますよとなる。
石原家の墓事情はともかく、お墓って結局生きている人のためにあるんだよなと、俺はそう認識している。とはいえ、そんなことを思ったのもここ数年の話。
兄貴分のIさんが亡くなって以来、命日の墓参は欠かしていない。Iさんが好きだった日本酒のワンカップを備え、俺は運転のため、酒の代わりに缶コーヒーの口を開け、行儀は悪いが、墓前にあぐらをかいて暫し語らう。内容は近況報告であったり、愚痴であったり、バカ話であったり、なんでこんなに早く死んでしまったんですかという怒りや寂しさだったり、他愛のないといえば他愛のない話。
正直、Iさんが亡くなるまでは父方にせよ、母方にせよ、お墓なんてものは骨壺を収めるための儀礼的なものぐらいにしか思っていなかった。もちろん、お盆やお彼岸にお参りはするものの、特にこれといった感情はなく、墓石に水を掛け、花を供え、線香に火を点けて手を合わせる、ご先祖様たちには申し訳ないがいわゆるルーティンワークだ。
しかし、Iさんのお墓を見たとき、そういうルーティンを超越した温かいものを感じたのである。
身も蓋もないことを言えばすべての生きとし生ける物は死んだら土に帰るだけ、大団円を迎えた理想的な死に方であっても、或いは言葉にするのも憚られるほどの悲惨な死に方であっても、死んでしまえば骨となるだけ。骨になにか意志があるかといえば当然ない(と思う)。
心臓の鼓動が停まり、火葬して骨になると、その人の人生はそこでお終い、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、これではあんまりだ。あまりにも虚しすぎる。だからこそ、人は墓石を立て、故人を忘れないようにする、中には生前故人に散々迷惑を掛けられ、含むものがあったとしても世間体のためだけにお墓を建てる人もいるだろう。故人への向き合い方は人それぞれであり、なにが正しくてなにが正しくないということもない。日本人の儀礼として無感情のまま、お盆やお彼岸に線香を上げるのもそれはそれであるし、お墓に向かって俺のように語らうのもそれはそれだろう。また、石原氏の遺言が履行されたかどうかは分からないが、墓仕舞いをしたり、墓石を立てず散骨をしてお仕舞いという弔い方であってもそれはそれなのだ。
ただ、いずれにしても残された人の心の問題である。
間もなく、震災から11年を迎える。
「早く支度しなさい、遅刻するわよ」、「いってきま~す」、3月11日の朝、いつもより寒い朝ではあったが、何一つ変わらない日常を人は送っていたはずである。まさかこの会話が今生の別れになるとは誰も知る由がない。それから数時間後、世界中を震撼させる未曽有の悲劇が訪れる。
震災で親族を亡くした方の中にはまだ遺骨が見つかっていないという理由でお墓を立てていない人もいるでしょうし、11年経っても未だに死と向き合えないという人もいるでしょう、また、お墓を建てようにも避難指示区域に先祖代々の墓地があるため、建てようにも建てられないでいるということもあると思う。
ゆえに、一括りになにが正解かなんてことは言えない。
それでも一ついえることはあくまでも俺の場合であるが、兄貴のお墓があることで俺自身が救われている。俺と兄貴とを結ぶ点として墓標があればいい。傲慢な考えではあるが、俺だけが兄貴のお墓を見て救われればそれでよく、兄貴のご家族を含め、ほかの人がどういう思いを抱いているのか知る必要もないなけりゃ、興味もない。故人への思いというものは兄貴のお墓と向き合った各々が自分の中で考えればいいこと。
俺は8月2日の命日に墓参をして、一年を振り返り、帰るときにはまた一年頑張ってみますよとなる。