不毛な話な気がするわな
- 2022/02/02
- 13:47
『きっとみんな子どものころ、親から「体にいいから食べなさい!」と好きでもないピーマンやセロリを無理やり食べさせられてきたのだろう。
我慢して食べたのだ。
そうやって野菜は、我慢して食べるに値するものだと頭に刷り込まれる。
根拠のない迷信が受け継がれるのだ。
先日、99歳で天寿をまっとうされた瀬戸内寂聴さんは、大の肉好きだった。
ぼくは10年くらいまえに初めてお会いし、それから何度か対談させていただいた。
~中略~
寂聴さん曰いわく、ストレスをためない秘訣は、食なのだという。
好きなものを、好きなように、好きなだけ食べる。
それが寂聴さんのポリシーだった。
寂聴さんの好物は肉だ。
だからほぼ毎日、食卓に並ぶのは肉料理である。
野菜は嫌い。
嫌いなものを我慢して食べてストレスをためるのは本末転倒。
だから野菜は食べない。豆腐も味気ないから食べない。』
(堀江貴文著『最大化の超習慣「堀江式」完全無欠の仕事術』より)
人一倍好き嫌いの激しい俺があれこれいうのもおかしな話だが、瀬戸内寂聴氏が肉を好んで食べ、野菜はあまり食べずに99歳まで生きた、だから長寿であろうという話、これって答えの出ない話だろ。すごく違和感があるんだよね。
確かに女性の平均寿命を基準にして単純に平均寿命を超えれば長命、平均寿命以下であれば短命とする(あくまでも便宜的、実際85歳以上であれば立派な長寿だと思う)、このように杓子定規的に分けるのであれば瀬戸内氏は長命に当てはまる、ただ、問題は規則正しい食生活を送っていればもしかすると110歳まで生きられたかもしれない、これに関してはイエスともノーともいえないだろう。何故なら誰も実験も比較も出来ないから。食生活を正しくして仮に110歳まで生きたとしても、もしかするとなにかしらの不備があり、その不備を修正することが出来れば115歳まで生きられたかもしれない。つまり、どこまで行ってもタラレバと結果のせめぎ合いでしかない。
個人の寿命の長短を判断することって絶対に出来ない。どんなに優秀な医師であってもだ。
死んだ婆さんの兄は酒・タバコを人並み以上に嗜みながら90歳近くまで生きた。今であれば90歳という年齢も珍しくないが昭和の時代であると結構な長命、葬式に紅白の饅頭を配り、大したものだと褒め称えられた。しかし、これもタラレバの話であるが、もしかすると酒・タバコをやらなければ100歳まで生きたかもしれない。確実にいえるのは生きたかもしれないし、生きていないかもしれないというふんわりとしたことだけ。
ただ、個人の寿命の長短を判断するは無理でも、人間の肉体の限界は110歳説というのはまさにその通りであると思う。日本全国に100歳以上の人は8万人存在しているが、これを110歳以上に絞ると世界を見ても十数人しか存在しない。日本国内じゃない、全世界に於いてです。科学的に見ても人間という生物の限界は110歳と考えるのが間違いなさそうである。
多少寿命が短くなったとしても栄養などに捉われず、好きなものを好きなだけ食べて死んだ方がマシという考えもあるし、規則正しい生活をしたら却ってストレスが溜まって寿命を縮めるということもあるので一概になにが正しいということも言えない。反面、タバコが特に祟るタイプの体質の人であるとタバコが禁忌なのは当然の話。しかし、タバコが祟るなんていうのも結果として肺炎や肺がんになってやっぱりタバコはアウトだったんだと気付く話で、ヘビースモーカーでも肺がんその他の肺病とは無縁の人もいる。
結局、なにが言いたいのかというと、他界した年齢を平均寿命基準より上なら長命、平均寿命基準より下なら短命と定義づけられることは出来たとしても、その個人の年齢について単純に100歳まで生きたから食生活は正しかったとは決して言いきれないでしょうってこと。
もっとも、瀬戸内氏のいう、「好きなものを、好きなように、好きなだけ食べる。」、これは完全に同意。化学的に生成された食品や農薬が散布された野菜を食べず、規則正しい生活を送り、110歳まで生きられたとしてもそれって本当に幸せな人生かよって思ってしまう。化学調味料が添加されていてもカップラーメンを食べたいし、明らかに自然界に存在しない物質で作られていようともコーラは飲みたい。その結果、70歳ぐらいで死んでも別に構わない。このへんもやはり最終的には価値観の問題になるから答えは出せない。
我慢して食べたのだ。
そうやって野菜は、我慢して食べるに値するものだと頭に刷り込まれる。
根拠のない迷信が受け継がれるのだ。
先日、99歳で天寿をまっとうされた瀬戸内寂聴さんは、大の肉好きだった。
ぼくは10年くらいまえに初めてお会いし、それから何度か対談させていただいた。
~中略~
寂聴さん曰いわく、ストレスをためない秘訣は、食なのだという。
好きなものを、好きなように、好きなだけ食べる。
それが寂聴さんのポリシーだった。
寂聴さんの好物は肉だ。
だからほぼ毎日、食卓に並ぶのは肉料理である。
野菜は嫌い。
嫌いなものを我慢して食べてストレスをためるのは本末転倒。
だから野菜は食べない。豆腐も味気ないから食べない。』
(堀江貴文著『最大化の超習慣「堀江式」完全無欠の仕事術』より)
人一倍好き嫌いの激しい俺があれこれいうのもおかしな話だが、瀬戸内寂聴氏が肉を好んで食べ、野菜はあまり食べずに99歳まで生きた、だから長寿であろうという話、これって答えの出ない話だろ。すごく違和感があるんだよね。
確かに女性の平均寿命を基準にして単純に平均寿命を超えれば長命、平均寿命以下であれば短命とする(あくまでも便宜的、実際85歳以上であれば立派な長寿だと思う)、このように杓子定規的に分けるのであれば瀬戸内氏は長命に当てはまる、ただ、問題は規則正しい食生活を送っていればもしかすると110歳まで生きられたかもしれない、これに関してはイエスともノーともいえないだろう。何故なら誰も実験も比較も出来ないから。食生活を正しくして仮に110歳まで生きたとしても、もしかするとなにかしらの不備があり、その不備を修正することが出来れば115歳まで生きられたかもしれない。つまり、どこまで行ってもタラレバと結果のせめぎ合いでしかない。
個人の寿命の長短を判断することって絶対に出来ない。どんなに優秀な医師であってもだ。
死んだ婆さんの兄は酒・タバコを人並み以上に嗜みながら90歳近くまで生きた。今であれば90歳という年齢も珍しくないが昭和の時代であると結構な長命、葬式に紅白の饅頭を配り、大したものだと褒め称えられた。しかし、これもタラレバの話であるが、もしかすると酒・タバコをやらなければ100歳まで生きたかもしれない。確実にいえるのは生きたかもしれないし、生きていないかもしれないというふんわりとしたことだけ。
ただ、個人の寿命の長短を判断するは無理でも、人間の肉体の限界は110歳説というのはまさにその通りであると思う。日本全国に100歳以上の人は8万人存在しているが、これを110歳以上に絞ると世界を見ても十数人しか存在しない。日本国内じゃない、全世界に於いてです。科学的に見ても人間という生物の限界は110歳と考えるのが間違いなさそうである。
多少寿命が短くなったとしても栄養などに捉われず、好きなものを好きなだけ食べて死んだ方がマシという考えもあるし、規則正しい生活をしたら却ってストレスが溜まって寿命を縮めるということもあるので一概になにが正しいということも言えない。反面、タバコが特に祟るタイプの体質の人であるとタバコが禁忌なのは当然の話。しかし、タバコが祟るなんていうのも結果として肺炎や肺がんになってやっぱりタバコはアウトだったんだと気付く話で、ヘビースモーカーでも肺がんその他の肺病とは無縁の人もいる。
結局、なにが言いたいのかというと、他界した年齢を平均寿命基準より上なら長命、平均寿命基準より下なら短命と定義づけられることは出来たとしても、その個人の年齢について単純に100歳まで生きたから食生活は正しかったとは決して言いきれないでしょうってこと。
もっとも、瀬戸内氏のいう、「好きなものを、好きなように、好きなだけ食べる。」、これは完全に同意。化学的に生成された食品や農薬が散布された野菜を食べず、規則正しい生活を送り、110歳まで生きられたとしてもそれって本当に幸せな人生かよって思ってしまう。化学調味料が添加されていてもカップラーメンを食べたいし、明らかに自然界に存在しない物質で作られていようともコーラは飲みたい。その結果、70歳ぐらいで死んでも別に構わない。このへんもやはり最終的には価値観の問題になるから答えは出せない。