不安の根本
- 2021/09/10
- 11:44
昨日も書いたが先の見えない不安って、この先景気はいったいどういう動きをするのかまったく読めないことの不安なんだと思う。
好景気と不景気は需要と供給のバランスによって形成され、消費者の需要があると景気がよくなり、市場に商品が行き渡り、物が余るようになると景気はなだらかな下降曲線を描く、これが資本主義の原理であり、このなだらかな下降曲線の時に政府はより多くの公共事業で景気回復の下支えをすべしと説いたのは経済学者のケインズ。
実際、アメリカのニューディール政策もナチスドイツのアウトバーン建設もこのケインズ経済学がベースとなり、両国の景気回復に寄与したのは事実である。特にドイツではこの時点でヒトラーが首相を退任していればドイツ史上ナンバーワンの宰相になったであろうと言われるほどドイツの経済をV字回復させた。
しかし、そもそも論として、発展途上国ならともかく、日本に於いては高速道路も鉄道も空港も港湾も行きつくところまで行きついてしまっているため、日本全国にリニアモーターカーをくまなく走らせるとかであればともかく、インフラの整備はほぼほぼ完了してしまった今、公共事業によって景気回復を図ろうとするのは土台無理な話ではないかと思うのです。
また、経済学者の中には資本主義の行きつくべきところまで地球は既に行きついてしまったのではないかと考えている学者もおり、複雑化し過ぎた現代社会に於いては需要と供給とのバランスそれ自体が意味をなさないんじゃないかというのだ。
不謹慎な話ではあるが日本の場合、富士山が噴火して東京、神奈川、埼玉、静岡、山梨が火山灰に覆い尽くされて首都機能が麻痺してしまうとか、南海トラフ地震が起き、四国の沿岸部が水の中に沈んでしまうとかでもない限り、景気のカンフル剤となる財政出動は非現実的でしょう。
元々人一倍どころか人二倍、人三倍の心配性ゆえに、常に勝つことよりも負けることを想定して働いてきた。違法フーゾクを果たして労働と呼べるかということはさておき、違法フーゾク時代も常に失敗するという前提で働いてきた。
ただ、裏を返すと再起不能なほどに負けが込まなかったのも結局この心配性が役に立ったのではないかと思っているのです。
孫子の兵法を座右の書として読み続けているのだが、孫子が言いたいのは必勝よりも不敗、ここらへんは経営者の性格にもよるが商売も不敗を目指すべきだと思う。
たとえば藤井聡太くんや羽生善治さんと将棋を打てば飛車角抜きで対戦したとしても俺が負ける自信がある。負ける自信とはおかしな話だがそう、確実に負ける。だが、麻雀ならどうだ、彼らが麻雀を打つかどうかは分からないがもし仮に麻雀であるなら1局、2局であれば運だけで俺が勝つことも十二分に考えられる。何局も積み重ねていくと最終的には麻雀も頭脳戦であるからやはり負けるのであるが東風戦1局のみなら勝つことは決して無理ではない。牌を開いた瞬間天和という可能性だって決してゼロではない(実質ゼロに近いが)。つまり彼らと将棋を打つことは絶対に避け、土下座をしてでも麻雀で勝負することにシフトさせる、これが経営者の戦い方であり、決して将棋を極めようとなんて思ってはいけない。時間の無駄だ。
運否天賦が大きく左右する勝負ゆえ、麻雀だからといって確実に勝てるとは言えないが少なくとも将棋で勝負するよりははるかにワンチャンがある。
誰でも知っている言葉に、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という孫子の言葉がある。これは羽生善治という人を研究しさえすれば絶対に勝てるということではない。羽生善治という棋士には勝てずとも羽生善治という人間には勝てるかもしれない。羽生善治という人と自分の力量とを客観的に分析したところ腕力ならほぼ確実に勝てるというのであれば柔道や相撲の勝負を挑めばいい。或いはどうしても将棋でしか勝負を受けないというのであれば予めお茶に思考を混乱させる麻薬を仕込むことも視野に入れるべき、そのためには給仕係を抱き込む必要がある。
つまり、孫子が言いたかったのは羽生さんの打ち筋をコンピューターで分析したところで到底俺に勝ち目はない、このまともにやったら勝てないということを知ることが敵を知りということだと思い、それであれば麻薬を仕込むとか柔道で勝負をせよというのが百戦危うからずだと思う。くれぐれも将棋の猛勉強をして、羽生さんと互角以上に渡り合おうなどと思ってくれるなというのが俺なりの「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の解釈。
こういう考え方をベースとしてなんとかここまで来たが今度ばかりは先がまったく見えない。
ここ一か月間、先月のお盆あたりからずーっとそればっかりを考えている。
とはいえ、座して死を待つつもりはなく、出来ることだけは着々と準備をしている。これがなにもない平時の時であればまあ成功はせずともまんざらではあるまいと言えるのだが、今はさすがにな。
好景気と不景気は需要と供給のバランスによって形成され、消費者の需要があると景気がよくなり、市場に商品が行き渡り、物が余るようになると景気はなだらかな下降曲線を描く、これが資本主義の原理であり、このなだらかな下降曲線の時に政府はより多くの公共事業で景気回復の下支えをすべしと説いたのは経済学者のケインズ。
実際、アメリカのニューディール政策もナチスドイツのアウトバーン建設もこのケインズ経済学がベースとなり、両国の景気回復に寄与したのは事実である。特にドイツではこの時点でヒトラーが首相を退任していればドイツ史上ナンバーワンの宰相になったであろうと言われるほどドイツの経済をV字回復させた。
しかし、そもそも論として、発展途上国ならともかく、日本に於いては高速道路も鉄道も空港も港湾も行きつくところまで行きついてしまっているため、日本全国にリニアモーターカーをくまなく走らせるとかであればともかく、インフラの整備はほぼほぼ完了してしまった今、公共事業によって景気回復を図ろうとするのは土台無理な話ではないかと思うのです。
また、経済学者の中には資本主義の行きつくべきところまで地球は既に行きついてしまったのではないかと考えている学者もおり、複雑化し過ぎた現代社会に於いては需要と供給とのバランスそれ自体が意味をなさないんじゃないかというのだ。
不謹慎な話ではあるが日本の場合、富士山が噴火して東京、神奈川、埼玉、静岡、山梨が火山灰に覆い尽くされて首都機能が麻痺してしまうとか、南海トラフ地震が起き、四国の沿岸部が水の中に沈んでしまうとかでもない限り、景気のカンフル剤となる財政出動は非現実的でしょう。
元々人一倍どころか人二倍、人三倍の心配性ゆえに、常に勝つことよりも負けることを想定して働いてきた。違法フーゾクを果たして労働と呼べるかということはさておき、違法フーゾク時代も常に失敗するという前提で働いてきた。
ただ、裏を返すと再起不能なほどに負けが込まなかったのも結局この心配性が役に立ったのではないかと思っているのです。
孫子の兵法を座右の書として読み続けているのだが、孫子が言いたいのは必勝よりも不敗、ここらへんは経営者の性格にもよるが商売も不敗を目指すべきだと思う。
たとえば藤井聡太くんや羽生善治さんと将棋を打てば飛車角抜きで対戦したとしても俺が負ける自信がある。負ける自信とはおかしな話だがそう、確実に負ける。だが、麻雀ならどうだ、彼らが麻雀を打つかどうかは分からないがもし仮に麻雀であるなら1局、2局であれば運だけで俺が勝つことも十二分に考えられる。何局も積み重ねていくと最終的には麻雀も頭脳戦であるからやはり負けるのであるが東風戦1局のみなら勝つことは決して無理ではない。牌を開いた瞬間天和という可能性だって決してゼロではない(実質ゼロに近いが)。つまり彼らと将棋を打つことは絶対に避け、土下座をしてでも麻雀で勝負することにシフトさせる、これが経営者の戦い方であり、決して将棋を極めようとなんて思ってはいけない。時間の無駄だ。
運否天賦が大きく左右する勝負ゆえ、麻雀だからといって確実に勝てるとは言えないが少なくとも将棋で勝負するよりははるかにワンチャンがある。
誰でも知っている言葉に、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という孫子の言葉がある。これは羽生善治という人を研究しさえすれば絶対に勝てるということではない。羽生善治という棋士には勝てずとも羽生善治という人間には勝てるかもしれない。羽生善治という人と自分の力量とを客観的に分析したところ腕力ならほぼ確実に勝てるというのであれば柔道や相撲の勝負を挑めばいい。或いはどうしても将棋でしか勝負を受けないというのであれば予めお茶に思考を混乱させる麻薬を仕込むことも視野に入れるべき、そのためには給仕係を抱き込む必要がある。
つまり、孫子が言いたかったのは羽生さんの打ち筋をコンピューターで分析したところで到底俺に勝ち目はない、このまともにやったら勝てないということを知ることが敵を知りということだと思い、それであれば麻薬を仕込むとか柔道で勝負をせよというのが百戦危うからずだと思う。くれぐれも将棋の猛勉強をして、羽生さんと互角以上に渡り合おうなどと思ってくれるなというのが俺なりの「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の解釈。
こういう考え方をベースとしてなんとかここまで来たが今度ばかりは先がまったく見えない。
ここ一か月間、先月のお盆あたりからずーっとそればっかりを考えている。
とはいえ、座して死を待つつもりはなく、出来ることだけは着々と準備をしている。これがなにもない平時の時であればまあ成功はせずともまんざらではあるまいと言えるのだが、今はさすがにな。