慶喜と劉禅
- 2021/06/28
- 11:05
大河ドラマ「青天を衝け」を楽しく見ている。
自分の家が水戸藩士の家系であるから栄一よりも慶喜の方に目が行ってしまう。
徳川慶喜に関しては評価が真っ二つに分かれる。大政を奉還して江戸城の無血開城を行ったため江戸市民百万人の命を救ったという評と鳥羽伏見で幕府のために戦っている幕臣たちを見捨てて自分は大阪城からまさかの敵前逃亡、勝ち負けは兵家の常であり、負けてしまうこと自体は致し方ないがそれにしても兵士を置き去りにしてさっさと逃げ帰ってしまうとは将軍以前に人としてどうか、卑怯千万という評に分かれる。
三国志の最後は諸葛孔明が病に倒れて亡くなると、孔明という希代の支柱を失った蜀は一気に瓦解してしまう。蜀漢の第2代皇帝劉禅はとにかく暗愚、伝聞の通りだとすれば軽い知的障害者なんじゃないかと思えるほど知能が低く、とても国を治める力などない。
しかしである、だからこそ、魏が攻めてくると恐れおののき、慶喜同様さっさと白旗を上げて降伏してしまう。余談だが降伏後は慶喜同様、死んだ者たちの怨嗟の声などどこ吹く風で悠々自適に暮らしている。
三国志は言うまでもなく世界的な名著であると思うが最後があまりにも呆気ない。横山光輝の漫画から入った自分も思わず、えーっと声を出してしまったほどだ。
慶喜、劉禅ともに共通しているのは結果として多くの命を救ったということ。もし劉禅が知略に長け、父帝の劉備同様、武人は戦場で死んでこそという気概があれば魏と衝突して多くの命が失われたはずである。
これを善しとするかそれとも悪しとするかは意見が分かれるところであるが、あくまでも個人的な意見でいうと高く評価する。結果論かもしれないが、先の大戦はどうやっても勝てない戦であったのだ。山本五十六は近衛文麿首相からアメリカとの戦争について尋ねられると、「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」といっている。山本五十六や硫黄島で壮絶な戦死を遂げた栗林忠道はアメリカに留学の経験があり、到底日本の国力ではアメリカに勝てないのは分かっていたのだ。
結果として日本が恥をかいたとしても慶喜同様アメリカに尻尾を振っていれば310万人とも言われる多くの日本人が亡くならずに済んだのである。
人の上に立つものの資質として勇猛果敢が決して正しいとは思わない。初めから負け戦だと分かっているのであれば臆病者となじられようとも出来るかぎり戦を回避すべきなのだ。旧日本軍の首脳部に至ってはいざとなれば神風が吹くという精神論に終始しており、もはや勝ち負け以前の問題。松ヤニを集めてゼロ戦を飛ばそうとしている国と石油資源が豊富なアメリカ、どちらが勝つかといえばそこに議論が入り込む余地すらない。
こういうことってビジネスも同じだと思う。いつも言うように俺なんかは失敗する前提で商売をしている。だからいつ負けてもいいような戦い方しかしない。もちろん、こういう消極的な戦い方だと大成功は収められない、確かにそれはそう、イケイケどんどんで突っ走るものこそが大勝利をする。だが、イケイケどんどんは大成功を収める代わりに、負けたときは再起不能になってしまう。これもあくまでも俺はですが、再起不能になって自己破産するよりはボチボチいい暮らしが出来ればそれでよしとする方を俺は選んでしまう。
最終的には生き方の問題であり、人生一度きり、やらずに後悔するよりはやって失敗する方がいいというのも分かるし多くの人命を奪う戦争とは違い、所詮商売であるから否定はしない。それと二十代なら破産しても再起は利くだろうからそれもいいだろうと思う。
ただ、らしくないかもしれないが、最近は出来るだけ穏やかに老後を暮らしたいという「欲」が芽生え、老後の人生設計などをしている。無一文になって生活保護を受け、あーあ、俺の人生なんだったんだと沈んで暮らすよりもそれなりに楽しい人生を歩めたなと縁側で庭の花木を愛でるような老後にしたい。そのためには負け方も考える必要はあると思っている。
自分の家が水戸藩士の家系であるから栄一よりも慶喜の方に目が行ってしまう。
徳川慶喜に関しては評価が真っ二つに分かれる。大政を奉還して江戸城の無血開城を行ったため江戸市民百万人の命を救ったという評と鳥羽伏見で幕府のために戦っている幕臣たちを見捨てて自分は大阪城からまさかの敵前逃亡、勝ち負けは兵家の常であり、負けてしまうこと自体は致し方ないがそれにしても兵士を置き去りにしてさっさと逃げ帰ってしまうとは将軍以前に人としてどうか、卑怯千万という評に分かれる。
三国志の最後は諸葛孔明が病に倒れて亡くなると、孔明という希代の支柱を失った蜀は一気に瓦解してしまう。蜀漢の第2代皇帝劉禅はとにかく暗愚、伝聞の通りだとすれば軽い知的障害者なんじゃないかと思えるほど知能が低く、とても国を治める力などない。
しかしである、だからこそ、魏が攻めてくると恐れおののき、慶喜同様さっさと白旗を上げて降伏してしまう。余談だが降伏後は慶喜同様、死んだ者たちの怨嗟の声などどこ吹く風で悠々自適に暮らしている。
三国志は言うまでもなく世界的な名著であると思うが最後があまりにも呆気ない。横山光輝の漫画から入った自分も思わず、えーっと声を出してしまったほどだ。
慶喜、劉禅ともに共通しているのは結果として多くの命を救ったということ。もし劉禅が知略に長け、父帝の劉備同様、武人は戦場で死んでこそという気概があれば魏と衝突して多くの命が失われたはずである。
これを善しとするかそれとも悪しとするかは意見が分かれるところであるが、あくまでも個人的な意見でいうと高く評価する。結果論かもしれないが、先の大戦はどうやっても勝てない戦であったのだ。山本五十六は近衛文麿首相からアメリカとの戦争について尋ねられると、「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」といっている。山本五十六や硫黄島で壮絶な戦死を遂げた栗林忠道はアメリカに留学の経験があり、到底日本の国力ではアメリカに勝てないのは分かっていたのだ。
結果として日本が恥をかいたとしても慶喜同様アメリカに尻尾を振っていれば310万人とも言われる多くの日本人が亡くならずに済んだのである。
人の上に立つものの資質として勇猛果敢が決して正しいとは思わない。初めから負け戦だと分かっているのであれば臆病者となじられようとも出来るかぎり戦を回避すべきなのだ。旧日本軍の首脳部に至ってはいざとなれば神風が吹くという精神論に終始しており、もはや勝ち負け以前の問題。松ヤニを集めてゼロ戦を飛ばそうとしている国と石油資源が豊富なアメリカ、どちらが勝つかといえばそこに議論が入り込む余地すらない。
こういうことってビジネスも同じだと思う。いつも言うように俺なんかは失敗する前提で商売をしている。だからいつ負けてもいいような戦い方しかしない。もちろん、こういう消極的な戦い方だと大成功は収められない、確かにそれはそう、イケイケどんどんで突っ走るものこそが大勝利をする。だが、イケイケどんどんは大成功を収める代わりに、負けたときは再起不能になってしまう。これもあくまでも俺はですが、再起不能になって自己破産するよりはボチボチいい暮らしが出来ればそれでよしとする方を俺は選んでしまう。
最終的には生き方の問題であり、人生一度きり、やらずに後悔するよりはやって失敗する方がいいというのも分かるし多くの人命を奪う戦争とは違い、所詮商売であるから否定はしない。それと二十代なら破産しても再起は利くだろうからそれもいいだろうと思う。
ただ、らしくないかもしれないが、最近は出来るだけ穏やかに老後を暮らしたいという「欲」が芽生え、老後の人生設計などをしている。無一文になって生活保護を受け、あーあ、俺の人生なんだったんだと沈んで暮らすよりもそれなりに楽しい人生を歩めたなと縁側で庭の花木を愛でるような老後にしたい。そのためには負け方も考える必要はあると思っている。