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- 2021/03/08
- 10:31
先週末は震災から10年ということでテレビ局では震災特集が組まれることが多かった。コロナが収束したら俺も岩手に行き、震災遺構を見て回りたいと思っている。
あれから10年経つが俺は出口のない森の中をひたすらさまよっている。哲学的な話になるが、震災が起きた意味が分からないのだ。
もちろん、地質学的な見地に立てば北アメリカプレートと、その下に沈み込む太平洋プレートの境界部で発生した海溝型地震であったということで恐らく説明はつくだろう。俺が言いたいのは地震そのもののメカニズムではなく、何故2万人近い多くの人が津波や建物の倒壊で亡くならなければいけなかったのかというその意義だったり、その理由。
それだって突き詰めれば揺れと津波の副次的なものであり、震災が起きたエリアに亡くなった方がたまたまそこにいたというだけの話で解決してしまうが、人の生き死にというものはそんなに単純な話ではないだろう。出口の見えない森の中と思っているのは地震という物理的な現象と人間の存在意義との相関性が分からず、未だにもがいている。
毎日新聞の3月7日版に掲載された、「お星になったママ、波になって会いたい」の記事は考えさせられた。父、母、兄、弟の幸せな四人家族、母の久美子さんは子供たち二人を手放しで愛したという。その久美子さんは不幸にも津波に飲まれた亡くなった。当時、4歳と2歳でまだ死を理解できない兄弟に父克政さんは「一番きれいな星がママだよ」、そう教えたといい、それを聞いた長男の律くんは「僕も流されて、波になりたい」と言ったという。
神様は越えられない試練を与えないというが本当だろうか。
しかし、俺は越えられない試練ってあると思っている。二人の幼い兄弟が津波で母を亡くし、今は健気にもたくましく生きているのが記事から読み取れる。それは素直に嬉しく涙が出る思いだが、でも、何故神様は何の罪もない幼子二人にこれほどまで苛烈な困難を与えたのかということがどうしても理解できない。たまたま、記事として特集されたが、被災地に行けば似たような話は山ほどあるのだろう。別に東日本大震災だけじゃない、阪神淡路大震災もそうだし、熊本地震もそう、また、台風での河川氾濫や土砂災害による犠牲もそう。天災の多い日本列島に住んでいるという、ただそれだけの理由で神様は越えられない試練ばかりを何故かくも与え続けるのか本当に分からない。
俺は震災を機に、信仰心というものを捨てた。
仏教、キリスト教、イスラム教、様々な宗教が存在しているが、最終的な帰結はみな極楽浄土、死んだら天国に行き、そこで幸せに暮らせるというもの。結局宗教とは信ずる神様に違いこそあれ、信仰心を持ち、祈りを捧げていればすべての宗教が死後天国に行けるということで一致している。また極楽浄土という誰も見たことのない極めてあやふやなものをアイデンティティにすることによって、嘘がバレずに済むため、宗教とは結局極楽浄土に頼るしかない。ここが宗教の限界でもある。
極楽浄土、それ自体は唱えても別に構わないが、俺なら天国なんてものよりも、生きている間に幸せに暮らせる方がよっぽどありがたい。そんな当たり前の幸せすらを叶えてくれない神様などクソくらえと思ったこともある。別に金持ちになるとかではなく、家族や友人と、時には喧嘩もするけど、やっぱり最後は笑って過ごせるそういう当たり前の幸せこそが人間本来の営みであると思うのだ。津波で亡くなった方がなにか、死んで詫びるほどの大罪を犯したのでしょうか。むろん、そんなことは微塵もない。
このあたりのことを考え出すといつも堂々巡りで、答えが見えなくなる。
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あれから10年経つが俺は出口のない森の中をひたすらさまよっている。哲学的な話になるが、震災が起きた意味が分からないのだ。
もちろん、地質学的な見地に立てば北アメリカプレートと、その下に沈み込む太平洋プレートの境界部で発生した海溝型地震であったということで恐らく説明はつくだろう。俺が言いたいのは地震そのもののメカニズムではなく、何故2万人近い多くの人が津波や建物の倒壊で亡くならなければいけなかったのかというその意義だったり、その理由。
それだって突き詰めれば揺れと津波の副次的なものであり、震災が起きたエリアに亡くなった方がたまたまそこにいたというだけの話で解決してしまうが、人の生き死にというものはそんなに単純な話ではないだろう。出口の見えない森の中と思っているのは地震という物理的な現象と人間の存在意義との相関性が分からず、未だにもがいている。
毎日新聞の3月7日版に掲載された、「お星になったママ、波になって会いたい」の記事は考えさせられた。父、母、兄、弟の幸せな四人家族、母の久美子さんは子供たち二人を手放しで愛したという。その久美子さんは不幸にも津波に飲まれた亡くなった。当時、4歳と2歳でまだ死を理解できない兄弟に父克政さんは「一番きれいな星がママだよ」、そう教えたといい、それを聞いた長男の律くんは「僕も流されて、波になりたい」と言ったという。
神様は越えられない試練を与えないというが本当だろうか。
しかし、俺は越えられない試練ってあると思っている。二人の幼い兄弟が津波で母を亡くし、今は健気にもたくましく生きているのが記事から読み取れる。それは素直に嬉しく涙が出る思いだが、でも、何故神様は何の罪もない幼子二人にこれほどまで苛烈な困難を与えたのかということがどうしても理解できない。たまたま、記事として特集されたが、被災地に行けば似たような話は山ほどあるのだろう。別に東日本大震災だけじゃない、阪神淡路大震災もそうだし、熊本地震もそう、また、台風での河川氾濫や土砂災害による犠牲もそう。天災の多い日本列島に住んでいるという、ただそれだけの理由で神様は越えられない試練ばかりを何故かくも与え続けるのか本当に分からない。
俺は震災を機に、信仰心というものを捨てた。
仏教、キリスト教、イスラム教、様々な宗教が存在しているが、最終的な帰結はみな極楽浄土、死んだら天国に行き、そこで幸せに暮らせるというもの。結局宗教とは信ずる神様に違いこそあれ、信仰心を持ち、祈りを捧げていればすべての宗教が死後天国に行けるということで一致している。また極楽浄土という誰も見たことのない極めてあやふやなものをアイデンティティにすることによって、嘘がバレずに済むため、宗教とは結局極楽浄土に頼るしかない。ここが宗教の限界でもある。
極楽浄土、それ自体は唱えても別に構わないが、俺なら天国なんてものよりも、生きている間に幸せに暮らせる方がよっぽどありがたい。そんな当たり前の幸せすらを叶えてくれない神様などクソくらえと思ったこともある。別に金持ちになるとかではなく、家族や友人と、時には喧嘩もするけど、やっぱり最後は笑って過ごせるそういう当たり前の幸せこそが人間本来の営みであると思うのだ。津波で亡くなった方がなにか、死んで詫びるほどの大罪を犯したのでしょうか。むろん、そんなことは微塵もない。
このあたりのことを考え出すといつも堂々巡りで、答えが見えなくなる。
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