まあまあの貧困
- 2020/12/18
- 15:58
灰燼に塗れ焦土と化した故郷の町並みを見て、茫然と佇む、終戦直後、日本全国津々浦々で見られた光景だと思う。
瓦礫の山に埋め尽くされ、我が家のあった場所さえも分からず、途方に暮れる、こちらは東日本大震災後の光景。
今年の10月以降、軒並み自殺者が増えているという。コロナに感染して亡くなった人よりも、自殺者の方が多く、確認されているだけで10月は2153人、11月は1798人、終戦直後や東日本大震災後の本当に壮絶な状況から比べると今のこの状況は比較するのもおこがましいとさえ思うのだが、自殺者数の増加は数値となって現れている。恐らくだが、終戦直後や東日本大震災直後よりもむしろ今の方が自殺者数は多いのではないかと思う。
これってなんでだろうとずーっと思ってきた。102才で死んだ婆さんは戦中戦後は子供たちを食わせなくてはならず、赤ん坊(つまり俺の伯父さん、おふくろはまだ生まれていない)を背負って一輪車を押し、常磐炭鉱で土方仕事に従事していたという。その婆さんがセブンスターの紫煙をくゆらしながら常々いっていたのはあの頃に比べたらどれだけ今の日本は恵まれているのかということ、まあ確かにそうだ、バブルが弾けようが、リーマンショックが起きようとも先人たちが味わった塗炭の苦しみに比べたら比較することのほうがおこがましいというのは事実だと思う。
しかし、現実は多くの人が自ら命を絶っている。もちろん、全員がコロナが原因ではないと思う。単なる痴話げんかのもつれなどという理由もあると思うし、さしたる理由が見当たらないというケースもあると思う。
いくらコロナ禍でしんどいといっても今の時代、他国は知らんが日本では困窮者向けの生活支援制度も充実しており、生活保護まではいかなくとも国(社会福祉協議会)がほぼほぼ無審査で金を融通してくれる。サラ金ブラックや自己破産者でも利用できるほど審査はザル。また、民間でも支援の輪が広がり、こども食堂などというワンコインや無償で食事が出来るサービスもある。加えて自治体独自の支援制度もある。いっちゃなんだが、餓死しようにも普通はなかなか死ねないのである。
でも現実的に自殺者数はうなぎのぼり、全員が全員そうだとは言わないが、それでも恐らく半分以上の人に当てはまるのは他人との比較なんじゃないかと思うようになった。
住む家がなくなり、廃墟や橋の下をねぐらにしていた人、終戦直後であれば珍しくもなんともないだろう。家がある人だって、辛うじて家があるというだけで誰もがカツカツの生活、ひもじい思いをしているのはなにも私だけでなく、隣の人もそう、その隣の人もそう、日本人全員が飢えに苦しんだ。こういう凄惨な状況、誰もがそうだから自分だけが悲惨だとは思いもしない。赤信号みんなで渡れば怖くないじゃないが、だれもそうだから私一人が不遇だなんて思っちゃいない。東日本大震災の津波で打ちのめされた東北地方沿岸部の人たちもそうだ。近親者や友人が亡くなり、涙が止まらず、苦しいのは事実であるが、仮設住宅の右隣の家も左隣の家もそうなのだ。打ちのめされているのは別に私だけではない。
もちろん、終戦直後も震災後も自殺した人はいると思うが、多分、今よりも随分少ないはずだ。
今の状況って貧富の差が割りと顕著、挨拶代わりに、「いや~、コロナで参りましたわ」といっても実は大して参っておらず、コロナ以前と変わらない生活をしている人が多い、人によってはむしろコロナ様々でコロナが原因で儲かった人も少なくない。
つまり、日本人の大部分がコロナの影響を受けつつも、まあまあの暮らしをしている、なのに私は派遣の仕事を解雇され、貯金もない、家賃も滞納している、クレジットカードは限度額いっぱい、このままいけばガスや電気も停まる、ケータイが停まったら人生の終わり、もう生きていけないと、こういう思考なんじゃないのか?まわりのみんなも電気が停まり、ガスが停まっているのであればともかく、町に出ればデパートは相変わらず混んでいるし、小洒落た飲食店は行列が出来ている。親も貧乏で頼れず、財布の中にある小銭だけが全財産、ひもじい・・・。
これが終戦直後との決定的な違いだ。
国民総貧困であるなら貧乏自慢も話のネタにもなるが、まいった、苦しいというのは社交辞令、見掛け倒しのかりそめの貧困でしかない。
その見掛け倒しの貧困時代の中でまあまあの貧困に喘ぐ人がいる。まあまあと言ったのは終戦直後の絶対的な貧困とは比べものにならないぐらい実は満たされている状況だからそういった、当時の人が見たら、甘ったれんなと張り倒されるレベルの貧困。そのまあまあの貧困というのが実は一番危険だともいえる。
元々ホームレスをしているような絶対的に貧乏な人は自分の立場をよく弁えており、どこに行けばスーパーのあまり弁当が貰えるのかとか、炊き出しがどこであるかなどの情報だけあれば割りと楽しく生きていられる。東京などの大都市であると、ホームレスたちのコミュニティが存在して、そのコミュニティがひとつの社会となって成立している、当然、そのコミュニティに属しているのは皆が皆揃いも揃って、総貧乏であるから(もしかすると本当は金持ちがいるかもしれないが)、自分がホームレスであることの負い目はあまり感じずにいられるだろう。人間は今のところ致死率100%、放っておいてもいずれ必ず死ぬからわざわざ死のうとも思わない。
まあまあの貧困の人ってそこまでは堕ちられないと思っているし、だからといって体やパンツを売って生計を立てるほどの度胸もない。だから死ぬという選択肢しかなくなってしまう。
別に成人した大人が自分の意思で死ぬのはまったく構わないと思っているため、自殺者が増えたとしても特になにがどうということもないが、なんで最近自殺者が増えたのかなと思ったときに、俺が考えたのは自分だけが満たされないと思ってしまう人が増えているからなのではないのかなと、そう思った次第であります。
瓦礫の山に埋め尽くされ、我が家のあった場所さえも分からず、途方に暮れる、こちらは東日本大震災後の光景。
今年の10月以降、軒並み自殺者が増えているという。コロナに感染して亡くなった人よりも、自殺者の方が多く、確認されているだけで10月は2153人、11月は1798人、終戦直後や東日本大震災後の本当に壮絶な状況から比べると今のこの状況は比較するのもおこがましいとさえ思うのだが、自殺者数の増加は数値となって現れている。恐らくだが、終戦直後や東日本大震災直後よりもむしろ今の方が自殺者数は多いのではないかと思う。
これってなんでだろうとずーっと思ってきた。102才で死んだ婆さんは戦中戦後は子供たちを食わせなくてはならず、赤ん坊(つまり俺の伯父さん、おふくろはまだ生まれていない)を背負って一輪車を押し、常磐炭鉱で土方仕事に従事していたという。その婆さんがセブンスターの紫煙をくゆらしながら常々いっていたのはあの頃に比べたらどれだけ今の日本は恵まれているのかということ、まあ確かにそうだ、バブルが弾けようが、リーマンショックが起きようとも先人たちが味わった塗炭の苦しみに比べたら比較することのほうがおこがましいというのは事実だと思う。
しかし、現実は多くの人が自ら命を絶っている。もちろん、全員がコロナが原因ではないと思う。単なる痴話げんかのもつれなどという理由もあると思うし、さしたる理由が見当たらないというケースもあると思う。
いくらコロナ禍でしんどいといっても今の時代、他国は知らんが日本では困窮者向けの生活支援制度も充実しており、生活保護まではいかなくとも国(社会福祉協議会)がほぼほぼ無審査で金を融通してくれる。サラ金ブラックや自己破産者でも利用できるほど審査はザル。また、民間でも支援の輪が広がり、こども食堂などというワンコインや無償で食事が出来るサービスもある。加えて自治体独自の支援制度もある。いっちゃなんだが、餓死しようにも普通はなかなか死ねないのである。
でも現実的に自殺者数はうなぎのぼり、全員が全員そうだとは言わないが、それでも恐らく半分以上の人に当てはまるのは他人との比較なんじゃないかと思うようになった。
住む家がなくなり、廃墟や橋の下をねぐらにしていた人、終戦直後であれば珍しくもなんともないだろう。家がある人だって、辛うじて家があるというだけで誰もがカツカツの生活、ひもじい思いをしているのはなにも私だけでなく、隣の人もそう、その隣の人もそう、日本人全員が飢えに苦しんだ。こういう凄惨な状況、誰もがそうだから自分だけが悲惨だとは思いもしない。赤信号みんなで渡れば怖くないじゃないが、だれもそうだから私一人が不遇だなんて思っちゃいない。東日本大震災の津波で打ちのめされた東北地方沿岸部の人たちもそうだ。近親者や友人が亡くなり、涙が止まらず、苦しいのは事実であるが、仮設住宅の右隣の家も左隣の家もそうなのだ。打ちのめされているのは別に私だけではない。
もちろん、終戦直後も震災後も自殺した人はいると思うが、多分、今よりも随分少ないはずだ。
今の状況って貧富の差が割りと顕著、挨拶代わりに、「いや~、コロナで参りましたわ」といっても実は大して参っておらず、コロナ以前と変わらない生活をしている人が多い、人によってはむしろコロナ様々でコロナが原因で儲かった人も少なくない。
つまり、日本人の大部分がコロナの影響を受けつつも、まあまあの暮らしをしている、なのに私は派遣の仕事を解雇され、貯金もない、家賃も滞納している、クレジットカードは限度額いっぱい、このままいけばガスや電気も停まる、ケータイが停まったら人生の終わり、もう生きていけないと、こういう思考なんじゃないのか?まわりのみんなも電気が停まり、ガスが停まっているのであればともかく、町に出ればデパートは相変わらず混んでいるし、小洒落た飲食店は行列が出来ている。親も貧乏で頼れず、財布の中にある小銭だけが全財産、ひもじい・・・。
これが終戦直後との決定的な違いだ。
国民総貧困であるなら貧乏自慢も話のネタにもなるが、まいった、苦しいというのは社交辞令、見掛け倒しのかりそめの貧困でしかない。
その見掛け倒しの貧困時代の中でまあまあの貧困に喘ぐ人がいる。まあまあと言ったのは終戦直後の絶対的な貧困とは比べものにならないぐらい実は満たされている状況だからそういった、当時の人が見たら、甘ったれんなと張り倒されるレベルの貧困。そのまあまあの貧困というのが実は一番危険だともいえる。
元々ホームレスをしているような絶対的に貧乏な人は自分の立場をよく弁えており、どこに行けばスーパーのあまり弁当が貰えるのかとか、炊き出しがどこであるかなどの情報だけあれば割りと楽しく生きていられる。東京などの大都市であると、ホームレスたちのコミュニティが存在して、そのコミュニティがひとつの社会となって成立している、当然、そのコミュニティに属しているのは皆が皆揃いも揃って、総貧乏であるから(もしかすると本当は金持ちがいるかもしれないが)、自分がホームレスであることの負い目はあまり感じずにいられるだろう。人間は今のところ致死率100%、放っておいてもいずれ必ず死ぬからわざわざ死のうとも思わない。
まあまあの貧困の人ってそこまでは堕ちられないと思っているし、だからといって体やパンツを売って生計を立てるほどの度胸もない。だから死ぬという選択肢しかなくなってしまう。
別に成人した大人が自分の意思で死ぬのはまったく構わないと思っているため、自殺者が増えたとしても特になにがどうということもないが、なんで最近自殺者が増えたのかなと思ったときに、俺が考えたのは自分だけが満たされないと思ってしまう人が増えているからなのではないのかなと、そう思った次第であります。