上級国民とか関係なしに
- 2020/10/30
- 11:39
昨年6月、東京都練馬区の自宅で長男の英一郎をナイフで刺して殺害したとして、殺人罪に問われ、一審・東京地裁で懲役6年の判決を受けた元農林水産事務次官熊沢英昭被告、この事件に関していうと、上級国民飯塚幸三とはまったくの正反対、無実は無理でも最低限執行猶予はつけてやれと思う。
熊沢被告の供述が真実であるならば息子の英一郎は近くの小学校で行われている運動会の騒音に腹を立て、ぶっ殺してやると発言をしている。
英一郎が小学校に乗り込み、包丁で小学生や父兄、教師を襲う、当然少なくない犠牲者が予想される、息子が包丁を持って小学校に向かったと慌てて110番通報をしたところで凶行が帰結するには十分すぎる時間、警察官が到着したころには本来楽しいはずの運動会が暗転、一面血の海と化していることぐらい想像するに難くない、この状況をあえて見過ごし、二十歳過ぎた息子のやったことであると、同義的な問題は別にして、自身の法的な責任を逃れるか、或いは犯罪であっても息子を殺害して無辜の人たちを凶刃から救ってやるか、究極の選択であるが、やはり俺は親の責任として息子の殺害を是としたい。それでなくとも数日前、似たような事件が川崎市で起きており、なんの罪もない小学生と父兄が殺されているのだ。親としての責任をどこに置くかで熊沢被告に対する見方は大きく変わる。
ただ、量刑を争うのであれば分かるがさすがに今更無罪を争うのは違うだろうとも思う。
それであればなぜ一審の時、罪を認めたのだ。初めから正当防衛で無罪を争点に争えばよかった。一審の判決を一旦は受け入れておきながら後日やっぱりあれは違うと上訴したところで裁判官の心証はよくなるはずがない。それならば量刑不当を理由に上訴すればよかったのだ。
あまりこういう言い方はよくないだろうが、被告の年齢は77才、のらりくらりと最高裁まで争えばそのうち自身の寿命が尽きて服役せずということも考えられる。最高裁の判決が出るころにはなにかをこじつけて入院してしまえばもしかすると刑の執行停止も考えられる。
あくまでも個人的な意見でいうと、熊沢被告は実に立派だと思っている。飯塚幸三とは大違いだ。
バカ息子英一郎が理由で娘さんは縁談が破談になり、未確認であるが自殺をしたという。自殺が事実ならいたたまれない。日常的に繰り返される暴力、そして他人にまで害を為そうという、もはや歯止めが利かない異常な精神状態、熊沢夫妻の限界はとっくに超えていたのだろう。
飯塚幸三については上級国民というフレーズが流行語になるほどであるが、その論で言えば熊沢被告も上級国民である。
だが、飯塚幸三に関しては断じて許すまじであるが、熊沢被告に対しては執行猶予をつけてやれよという柔らかい反応がネットでも大勢を占めている。
つまり、上級国民が争点なのではなく、人間の生き方の問題だと思う。どこかの学者さんが飯塚幸三に対するバッシングは庶民の「羨望の表われ」であるといったが、「はあ?」だ。飯塚幸三の資産がいくらあるか知らんがコイツに対する羨望なんてまるでない。現場検証でも帽子を取って手も合わせなかった厚顔無恥さ、あくまでも車の不調で起きた事故であると言い張り無罪主張、イチイチ腹立たしいのだ。コイツが上級国民だとか、平民だとかはまったくどうでもいいこと。仮に下級国民であっても許さない。
最近は介護などの心労が限界に達して殺人を犯してしまう事件が後を絶たない。
理由はどうであれ殺人を肯定する、もちろんそんなことは絶対にあってはならないことだが、でも、状況は最大限加味して、情状酌量の余地があるなら温情のある判決が必要だと思う。
確かに安易にすべて執行猶予を認めてしまうと、だったら殺してしまえという不埒な奴も現れかねないのでそこらへんはよくよく慎重に捜査、審理をするのは言うまでもないが、これからこの手の事件は少子高齢化が進み益々増えると思う。
それとは逆に飯塚幸三や同様の交通事故を起こした元東京地検特捜部長で弁護士の石川達紘などは厳しく裁けと思う。
熊沢被告の供述が真実であるならば息子の英一郎は近くの小学校で行われている運動会の騒音に腹を立て、ぶっ殺してやると発言をしている。
英一郎が小学校に乗り込み、包丁で小学生や父兄、教師を襲う、当然少なくない犠牲者が予想される、息子が包丁を持って小学校に向かったと慌てて110番通報をしたところで凶行が帰結するには十分すぎる時間、警察官が到着したころには本来楽しいはずの運動会が暗転、一面血の海と化していることぐらい想像するに難くない、この状況をあえて見過ごし、二十歳過ぎた息子のやったことであると、同義的な問題は別にして、自身の法的な責任を逃れるか、或いは犯罪であっても息子を殺害して無辜の人たちを凶刃から救ってやるか、究極の選択であるが、やはり俺は親の責任として息子の殺害を是としたい。それでなくとも数日前、似たような事件が川崎市で起きており、なんの罪もない小学生と父兄が殺されているのだ。親としての責任をどこに置くかで熊沢被告に対する見方は大きく変わる。
ただ、量刑を争うのであれば分かるがさすがに今更無罪を争うのは違うだろうとも思う。
それであればなぜ一審の時、罪を認めたのだ。初めから正当防衛で無罪を争点に争えばよかった。一審の判決を一旦は受け入れておきながら後日やっぱりあれは違うと上訴したところで裁判官の心証はよくなるはずがない。それならば量刑不当を理由に上訴すればよかったのだ。
あまりこういう言い方はよくないだろうが、被告の年齢は77才、のらりくらりと最高裁まで争えばそのうち自身の寿命が尽きて服役せずということも考えられる。最高裁の判決が出るころにはなにかをこじつけて入院してしまえばもしかすると刑の執行停止も考えられる。
あくまでも個人的な意見でいうと、熊沢被告は実に立派だと思っている。飯塚幸三とは大違いだ。
バカ息子英一郎が理由で娘さんは縁談が破談になり、未確認であるが自殺をしたという。自殺が事実ならいたたまれない。日常的に繰り返される暴力、そして他人にまで害を為そうという、もはや歯止めが利かない異常な精神状態、熊沢夫妻の限界はとっくに超えていたのだろう。
飯塚幸三については上級国民というフレーズが流行語になるほどであるが、その論で言えば熊沢被告も上級国民である。
だが、飯塚幸三に関しては断じて許すまじであるが、熊沢被告に対しては執行猶予をつけてやれよという柔らかい反応がネットでも大勢を占めている。
つまり、上級国民が争点なのではなく、人間の生き方の問題だと思う。どこかの学者さんが飯塚幸三に対するバッシングは庶民の「羨望の表われ」であるといったが、「はあ?」だ。飯塚幸三の資産がいくらあるか知らんがコイツに対する羨望なんてまるでない。現場検証でも帽子を取って手も合わせなかった厚顔無恥さ、あくまでも車の不調で起きた事故であると言い張り無罪主張、イチイチ腹立たしいのだ。コイツが上級国民だとか、平民だとかはまったくどうでもいいこと。仮に下級国民であっても許さない。
最近は介護などの心労が限界に達して殺人を犯してしまう事件が後を絶たない。
理由はどうであれ殺人を肯定する、もちろんそんなことは絶対にあってはならないことだが、でも、状況は最大限加味して、情状酌量の余地があるなら温情のある判決が必要だと思う。
確かに安易にすべて執行猶予を認めてしまうと、だったら殺してしまえという不埒な奴も現れかねないのでそこらへんはよくよく慎重に捜査、審理をするのは言うまでもないが、これからこの手の事件は少子高齢化が進み益々増えると思う。
それとは逆に飯塚幸三や同様の交通事故を起こした元東京地検特捜部長で弁護士の石川達紘などは厳しく裁けと思う。