墓参り
- 2020/08/17
- 15:24
今年のお盆は兄貴分であるIさんの墓参りに出掛けた。
笠間市の山奥のとある古刹にお墓がある。行ったのは12日の夕刻、兄貴が大好きであった日本酒のワンカップを用意しての墓参り。
日本酒のカップを開け、そっと墓石に垂らす、「すいませんが、自分は運転なので飲む真似だけさせてもらいますわ、乾杯」、俺は残りの日本酒で唇を軽く濡らす。
今更、言っても仕方のないことだが、一緒に仕事をしたかったなという思いばかりが募る。コロナ禍でも自分なりにはまあまあ健闘の部類だと思う、仕事を請け負ってくれている仲間には申し訳ないがこれが兄貴と一緒に出来ていたらどれだけ楽しいことだろうかという思いばかりが溢れてくる。二人で汗水たらしながらなにか出来ればそれ以上のものは望むべくもない。たまたまだが、昨日森林伐採をしてくれという仕事の依頼が入り、お盆期間中ということもあり、自分が代理で現場の見積もりに出掛けた。場所はなんの因果か兄貴の生まれ故郷に近いところ。霞ヶ浦の湖面を見ながら思ったのはこの現場だって兄貴と一緒に仕事をしたかったよなということ。
言いだしたらキリがなく、詮無いことだが、分かっていてもとっさにそう思ってしまう。そしていつも、ああもういないんだよなと我に返り、寂しさがどっと押し寄せる。俺が仕事をしている限り、ずっとこの繰り返しなんだと思う。
それでも墓参りっていいなと思う。
こんなことを言ったら身も蓋もないが、人は亡くなればそれでお仕舞いであり、霊なんてものは存在しない。ただ、その御霊は各々の心の中に意識として存在する。墓参りをして線香をあげ、手を合わす、これは結局御霊に対しての行為ではなく自己満足でしかない。だが、自己満足であってもこうして墓前に立ち、故人の骨と対峙した瞬間、目の前には「確実」に故人の霊が存在するのだ。「どうですか向こうは暑くないですか、こっちは暑さとコロナで大変ですよ」と話しかければ、「コロナはさすがに予想しなかったがあんまり無理しないで頑張れよ」と優しい言葉が返ってくる。
もちろん、こんなものはすべて俺自身が作り出した想像の産物でしかない。それを都合よく俺がIさんとの対話として脳の中で作りだしているだけだ。
しかし、こうして思いを心に抱き生きていくのは素敵なことだと思う。人間、科学がすべてだと思ったら疲れてしまう。非科学的なことであってもそれが生きる糧となるなら頼ったっていいと思う。だからといって無理して御霊と対峙する必要もない。事故死や自殺など、なかには心が吹っ切れず、故人と向き合いたくない人もいるだろう。それも一つだ。或いはそのような人でも時が経てば向き合えるようになるかもしれない。答えの出ないものであるから柔軟に考えればいいと思っている。
笠間市の山奥のとある古刹にお墓がある。行ったのは12日の夕刻、兄貴が大好きであった日本酒のワンカップを用意しての墓参り。
日本酒のカップを開け、そっと墓石に垂らす、「すいませんが、自分は運転なので飲む真似だけさせてもらいますわ、乾杯」、俺は残りの日本酒で唇を軽く濡らす。
今更、言っても仕方のないことだが、一緒に仕事をしたかったなという思いばかりが募る。コロナ禍でも自分なりにはまあまあ健闘の部類だと思う、仕事を請け負ってくれている仲間には申し訳ないがこれが兄貴と一緒に出来ていたらどれだけ楽しいことだろうかという思いばかりが溢れてくる。二人で汗水たらしながらなにか出来ればそれ以上のものは望むべくもない。たまたまだが、昨日森林伐採をしてくれという仕事の依頼が入り、お盆期間中ということもあり、自分が代理で現場の見積もりに出掛けた。場所はなんの因果か兄貴の生まれ故郷に近いところ。霞ヶ浦の湖面を見ながら思ったのはこの現場だって兄貴と一緒に仕事をしたかったよなということ。
言いだしたらキリがなく、詮無いことだが、分かっていてもとっさにそう思ってしまう。そしていつも、ああもういないんだよなと我に返り、寂しさがどっと押し寄せる。俺が仕事をしている限り、ずっとこの繰り返しなんだと思う。
それでも墓参りっていいなと思う。
こんなことを言ったら身も蓋もないが、人は亡くなればそれでお仕舞いであり、霊なんてものは存在しない。ただ、その御霊は各々の心の中に意識として存在する。墓参りをして線香をあげ、手を合わす、これは結局御霊に対しての行為ではなく自己満足でしかない。だが、自己満足であってもこうして墓前に立ち、故人の骨と対峙した瞬間、目の前には「確実」に故人の霊が存在するのだ。「どうですか向こうは暑くないですか、こっちは暑さとコロナで大変ですよ」と話しかければ、「コロナはさすがに予想しなかったがあんまり無理しないで頑張れよ」と優しい言葉が返ってくる。
もちろん、こんなものはすべて俺自身が作り出した想像の産物でしかない。それを都合よく俺がIさんとの対話として脳の中で作りだしているだけだ。
しかし、こうして思いを心に抱き生きていくのは素敵なことだと思う。人間、科学がすべてだと思ったら疲れてしまう。非科学的なことであってもそれが生きる糧となるなら頼ったっていいと思う。だからといって無理して御霊と対峙する必要もない。事故死や自殺など、なかには心が吹っ切れず、故人と向き合いたくない人もいるだろう。それも一つだ。或いはそのような人でも時が経てば向き合えるようになるかもしれない。答えの出ないものであるから柔軟に考えればいいと思っている。