徒然に
- 2020/03/11
- 11:12
震災から9年が経った。世間はコロナ渦でそれどころではないのでしょうけど、やっぱり俺は東日本大震災を自分の人生から切り離すことは出来ないなと思うのです。
今朝、仕事の関係でたまたまあの日被災した場所を車で通った。
当時は素浪人中でパソコンのスクールに通っていた。当たり前だが朝出掛けるとき、まさかこんなことが起こるなどとは夢想だにしていなかった。いつもの朝、いつもの日常、淡々とWEB制作の勉強をする日々。
授業が14時半に終わり、なんとなく少し遊んで帰るかと思い、パチンコ店に立ち寄った。玉を借り、打ち始めてすぐのことだ、にわかには信じがたい揺れに襲われ、こんなところで押しつぶされたらかなわんと、慌てて店を飛び出る。
揺れは延々と続く。目の前のコンビニに伝わる電線が切れ、青白い火花が飛び散る。コンビニのポール型の看板にすがる年配のおじさんにそんなところにいたら上から看板が落ちてきて危ないからすぐに離れろと怒鳴り飛ばす。
俺は慌ててパソコンスクールに戻る。アスファルトの地面が隆起して地割れを起こすところを生まれて初めて見た。路面が海面のように波打っている。恐ろしい光景なのであるが、その恐ろしい光景を、へ~、アスファルトの固い路面もこうして簡単に波打つんだなと、もう一人の自分が俯瞰的に見ているのが妙におかしかった。
警報の鳴り響く中、スクールに戻ると、まだ残っていた生徒たちが講師とともに青い顔をして震えている。女の子たちは泣いていた。
とにかく大変なことが起きたということだけは理解できたが、当時はまだガラケー、情報量が圧倒的に少なく理解することが追い付かない。そもそもドコモの携帯は繋がらくなくなってしまい、情報を得ようにも得られない。たまたまスクール生の一人がまだ出始めのスマートフォンを持っており、彼がどこかにアクセスすると震源地は宮城県沖だという。バカな、茨城でかつてないほど大きな揺れを経験したのに、震源地は宮城県だと?宮城は大丈夫かと思っていると、第二波の凄い揺れが襲う。幸い、まわりに建物がない駐車場に避難していたためビルやマンションの下敷きになるということはないが、今度は両親や別れた妻や娘が心配になる。
どちらも電話がつながらない。
底知れぬ不安が断続する波のように次から次へと押し寄せてくる。
慌てて車に飛び乗り、とりあえず実家に向かうがとにかく渋滞して車は動かない。
自宅に着いたのは午後8時すぎ、いつもなら30分もあれば着くところが4時間も掛かった。実は途中で車をとある商業施設に乗り捨てそこから徒歩で帰宅した。車が進む時間より、歩きの方が明らかに早かった、実家に付き、親父とおふくろの顔を見るなり、俺は赤ん坊のように泣きまくった。無事でよかったと声を上げて泣いた。翌日、元嫁からも無事のメールが来て安堵した。
ここから暫くはまさに艱難辛苦の日々であり、あまりのストレスからメニエール病を患い、救急搬送されたりもした。それまでの価値観が一変、ガラガラと音を立てて壊れていくのも日々感じていた。以前も書いたが、結局、お釈迦様もイエスキリストも、誰に恥じることなく、いくら尊い生き方をしたところで神様はひたすら無関心、多くの人が津波で亡くなるのを見て、救ってくれることのない宗教なんて実に馬鹿馬鹿しい存在だと思ったりもした。
まあ書き始めたら本が一冊書けるぐらいの厚さになってしまうため、このぐらいにしておくが、東日本大震災がその後の自分の人生によくも悪くも多大な影響を与えたのは事実。
今朝、仕事の関係でたまたまあの日被災した場所を車で通った。
当時は素浪人中でパソコンのスクールに通っていた。当たり前だが朝出掛けるとき、まさかこんなことが起こるなどとは夢想だにしていなかった。いつもの朝、いつもの日常、淡々とWEB制作の勉強をする日々。
授業が14時半に終わり、なんとなく少し遊んで帰るかと思い、パチンコ店に立ち寄った。玉を借り、打ち始めてすぐのことだ、にわかには信じがたい揺れに襲われ、こんなところで押しつぶされたらかなわんと、慌てて店を飛び出る。
揺れは延々と続く。目の前のコンビニに伝わる電線が切れ、青白い火花が飛び散る。コンビニのポール型の看板にすがる年配のおじさんにそんなところにいたら上から看板が落ちてきて危ないからすぐに離れろと怒鳴り飛ばす。
俺は慌ててパソコンスクールに戻る。アスファルトの地面が隆起して地割れを起こすところを生まれて初めて見た。路面が海面のように波打っている。恐ろしい光景なのであるが、その恐ろしい光景を、へ~、アスファルトの固い路面もこうして簡単に波打つんだなと、もう一人の自分が俯瞰的に見ているのが妙におかしかった。
警報の鳴り響く中、スクールに戻ると、まだ残っていた生徒たちが講師とともに青い顔をして震えている。女の子たちは泣いていた。
とにかく大変なことが起きたということだけは理解できたが、当時はまだガラケー、情報量が圧倒的に少なく理解することが追い付かない。そもそもドコモの携帯は繋がらくなくなってしまい、情報を得ようにも得られない。たまたまスクール生の一人がまだ出始めのスマートフォンを持っており、彼がどこかにアクセスすると震源地は宮城県沖だという。バカな、茨城でかつてないほど大きな揺れを経験したのに、震源地は宮城県だと?宮城は大丈夫かと思っていると、第二波の凄い揺れが襲う。幸い、まわりに建物がない駐車場に避難していたためビルやマンションの下敷きになるということはないが、今度は両親や別れた妻や娘が心配になる。
どちらも電話がつながらない。
底知れぬ不安が断続する波のように次から次へと押し寄せてくる。
慌てて車に飛び乗り、とりあえず実家に向かうがとにかく渋滞して車は動かない。
自宅に着いたのは午後8時すぎ、いつもなら30分もあれば着くところが4時間も掛かった。実は途中で車をとある商業施設に乗り捨てそこから徒歩で帰宅した。車が進む時間より、歩きの方が明らかに早かった、実家に付き、親父とおふくろの顔を見るなり、俺は赤ん坊のように泣きまくった。無事でよかったと声を上げて泣いた。翌日、元嫁からも無事のメールが来て安堵した。
ここから暫くはまさに艱難辛苦の日々であり、あまりのストレスからメニエール病を患い、救急搬送されたりもした。それまでの価値観が一変、ガラガラと音を立てて壊れていくのも日々感じていた。以前も書いたが、結局、お釈迦様もイエスキリストも、誰に恥じることなく、いくら尊い生き方をしたところで神様はひたすら無関心、多くの人が津波で亡くなるのを見て、救ってくれることのない宗教なんて実に馬鹿馬鹿しい存在だと思ったりもした。
まあ書き始めたら本が一冊書けるぐらいの厚さになってしまうため、このぐらいにしておくが、東日本大震災がその後の自分の人生によくも悪くも多大な影響を与えたのは事実。