教員の社会経験問題
- 2019/08/23
- 11:05
最近とても身につまされるというか、切ない気持ちなったのは同級生を殺害した所沢市の事件。少年院への送致が決まったという。
もちろん、同級生をどんな理由があろうとも殺害するなんてことはあってはならないのだが、これってもう少し学校でなんとかならなかったのかなってこと。
本来、十代というのは人生で最も充実した楽しい期間であると思う。そこを失ってしまった互いの少年は悲劇であるし、また、その家族も悲劇だ。
最近、ホリエモンなど一部の先進的な考え方をする人たちのなかには学校不要論を説く人がいる。無駄なことに時間を費やすのであれば自分が好きなことだけを自分の力で学べばいいという考え方。
確かに、特に文系の科目に関しては極端な話、覚えたか、覚えていないかだけだから、社会科などは教科書を読めばいい、どうしても足りないところはYouTubeなどの動画で補修的に学べば十分であると思える。実際、恐らくそれ系の動画教材は山ほどあると思う。
理数科系の科目にしても財力があるのであればわざわざ学校に行かず、専属の家庭教師をつけるか、予備校や塾で学べば事足りてしまうであろう。
だけど、学校で学ぶことってそういう表面的なことだけじゃなく、同級生との関係、教師を含めた上下関係を学ぶ場でもあると思うのだ。自殺や殺害をするほどの苦痛は論外だが、社会というのは基本的に自分の力だけではどうにもならないことだらけだ、突っ張ることも必要だが、折れることも必要だ、そういうことを学ぶ修養期間であると思う。自分より弱い子がいれば助けてあげるべきだし、仲間と共に何かをやり遂げる喜びを学ぶ場であると思うのだ。
実はここで学校教育の根本的な矛盾にぶつかる。
教師の問題だ。
学校教育では社会生活を送る上での人間関係を学ぶ場であるのだが、学校の先生とは基本的に社会生活を一度も送ったことのない人が卒業してすぐになる職業だ。
一般の民間企業もそうだし、教員を除く他の公務員もそうだが、就職すると先輩方に仕事を教わる。先輩方は何年かその現場にいて、確実に社会経験を積んでおり、その職業の良い面、悪い面を学んでいる。だからこそ、新人に教えられる。
しかし、教員の場合、一度社会に出てからやっぱり教師への夢が諦められず、採用試験を受けたという人を除けば皆大学や大学院を卒業してすぐになる。彼らの社会経験ってせいぜい大学時代にバイトをしたことがあるぐらいしょう。申し訳ないけど、バイトってどんなにキツいバイトであっても所詮はバイトでしかない。それはなぜか?バイトには責任がない。へまをしてクビになることはあるかもしれないが、責任の範囲はそこまで。取引先の企業に出向き、土下座して謝罪をする必要もなければ左遷を言い渡され一生冷や飯を食うはめになるということもない。
結果、社会の厳しさを知らずに教師になってしまっていることが問題だと思う。
特に最近はその傾向が顕著であると思う。教師の犯罪や過度の体罰、言葉の暴力など理解に苦しむ指導方法が毎日なにかしらニュースになる。
もちろん、教員の大部分が高い志があって教師になったと思うし、そう信じたいのだが、いじめがあったことを認知していながら事なかれ主義で見て見ぬふりする、結果として自殺であったり、今回の事件のように加害者を殺害するなんてことが現実として起きてしまう。
なかにはいじめ撲滅に強い熱意を示す熱血漢の校長先生がおり、そういう学校では教師間の意思の統率がしっかりとれているためかなり成果を上げているというが、自己の保身を第一に考える指導者では頭が痛い。
ここらへんが今後の課題だと思うのです。最近では中学校などでも積極的に職場体験を行っているが、まずは先生、あなたが社会経験を積んで勉強する必要があるんじゃないですかと。民間企業だと、入社初年度は学卒の幹部候補生であっても店頭に立たせられたり、営業に配置されられたりして、社会の仕組みを学ぶようになっていたりします。
もちろん、同級生をどんな理由があろうとも殺害するなんてことはあってはならないのだが、これってもう少し学校でなんとかならなかったのかなってこと。
本来、十代というのは人生で最も充実した楽しい期間であると思う。そこを失ってしまった互いの少年は悲劇であるし、また、その家族も悲劇だ。
最近、ホリエモンなど一部の先進的な考え方をする人たちのなかには学校不要論を説く人がいる。無駄なことに時間を費やすのであれば自分が好きなことだけを自分の力で学べばいいという考え方。
確かに、特に文系の科目に関しては極端な話、覚えたか、覚えていないかだけだから、社会科などは教科書を読めばいい、どうしても足りないところはYouTubeなどの動画で補修的に学べば十分であると思える。実際、恐らくそれ系の動画教材は山ほどあると思う。
理数科系の科目にしても財力があるのであればわざわざ学校に行かず、専属の家庭教師をつけるか、予備校や塾で学べば事足りてしまうであろう。
だけど、学校で学ぶことってそういう表面的なことだけじゃなく、同級生との関係、教師を含めた上下関係を学ぶ場でもあると思うのだ。自殺や殺害をするほどの苦痛は論外だが、社会というのは基本的に自分の力だけではどうにもならないことだらけだ、突っ張ることも必要だが、折れることも必要だ、そういうことを学ぶ修養期間であると思う。自分より弱い子がいれば助けてあげるべきだし、仲間と共に何かをやり遂げる喜びを学ぶ場であると思うのだ。
実はここで学校教育の根本的な矛盾にぶつかる。
教師の問題だ。
学校教育では社会生活を送る上での人間関係を学ぶ場であるのだが、学校の先生とは基本的に社会生活を一度も送ったことのない人が卒業してすぐになる職業だ。
一般の民間企業もそうだし、教員を除く他の公務員もそうだが、就職すると先輩方に仕事を教わる。先輩方は何年かその現場にいて、確実に社会経験を積んでおり、その職業の良い面、悪い面を学んでいる。だからこそ、新人に教えられる。
しかし、教員の場合、一度社会に出てからやっぱり教師への夢が諦められず、採用試験を受けたという人を除けば皆大学や大学院を卒業してすぐになる。彼らの社会経験ってせいぜい大学時代にバイトをしたことがあるぐらいしょう。申し訳ないけど、バイトってどんなにキツいバイトであっても所詮はバイトでしかない。それはなぜか?バイトには責任がない。へまをしてクビになることはあるかもしれないが、責任の範囲はそこまで。取引先の企業に出向き、土下座して謝罪をする必要もなければ左遷を言い渡され一生冷や飯を食うはめになるということもない。
結果、社会の厳しさを知らずに教師になってしまっていることが問題だと思う。
特に最近はその傾向が顕著であると思う。教師の犯罪や過度の体罰、言葉の暴力など理解に苦しむ指導方法が毎日なにかしらニュースになる。
もちろん、教員の大部分が高い志があって教師になったと思うし、そう信じたいのだが、いじめがあったことを認知していながら事なかれ主義で見て見ぬふりする、結果として自殺であったり、今回の事件のように加害者を殺害するなんてことが現実として起きてしまう。
なかにはいじめ撲滅に強い熱意を示す熱血漢の校長先生がおり、そういう学校では教師間の意思の統率がしっかりとれているためかなり成果を上げているというが、自己の保身を第一に考える指導者では頭が痛い。
ここらへんが今後の課題だと思うのです。最近では中学校などでも積極的に職場体験を行っているが、まずは先生、あなたが社会経験を積んで勉強する必要があるんじゃないですかと。民間企業だと、入社初年度は学卒の幹部候補生であっても店頭に立たせられたり、営業に配置されられたりして、社会の仕組みを学ぶようになっていたりします。