金属バットでフルスイングしたいですね
- 2019/08/07
- 14:03
久々に頭にきた、愛知の「表現の不自由展」である。
昭和天皇の写真を燃やし、足で踏みつぶす、こんなものが芸術とはちゃんちゃらおかしい。もし、これが愛知ではなく、水戸界隈の公共施設で開催されていたら、確実に金属バット持参ですべて叩き壊す。器物損壊罪で逮捕は免れんだろうが、それも致し方なし。前科もあるから執行猶予なしの実刑判決かもしれぬがそれもまた致し方なしだ。
だいたい、昭和天皇は戦争犯罪人として刑事訴追をされておらず、戦争責任云々はおかど違いだ。
左翼のゴミどもが伝家の宝刀にしている憲法による表現の自由から言ってもおかしい。
日本国憲法第1条には、『天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。』とある。
憲法に天皇は日本国民統合の象徴と定義してある、つまり、生まれたばっかりの赤ちゃんからギネスブックに載る長寿のお年寄りまで年齢、男女、宗教、思想を問わず、国民の総意として天皇を象徴としているのだ。
すると、共産党員の私は天皇制に反対しているというかもしれないが、憲法で国民統合と定義している以上、自分の政治的な信念は別にして、国民全員が天皇の存在を象徴として認めているのだということを認めなくてはならない。認めないというのであればまずは改憲をして天皇制を根本から見直さなくてはならない。そもそも、左翼の連中は改憲に反対ではないか、矛盾していることに気付かない愚か者の集団だ。
その憲法に定義された国民のシンボルを公共の施設で燃やすという行為は果たして表現の自由に当たるのか。
百歩譲ってどうしても天皇の写真を燃やすという行為をしたいのであれば公共の施設など使わず自分の家で近所迷惑にならない範囲でバカたち同士で盛り上がってバカ騒ぎをすればいいのだ。せいぜいここまでが表現の自由の範囲。
ちなみに、今回腹立たしいというのは公共の施設を使ったということでもある。
公共の施設というのは国民の信託の元に成り立っている施設だ。
国民の信託とはなにか、言うまでもなく、民主主義の原則である。
公共の施設の存在意義とは国民の過半数以上がその公共施設が存在することによって精神的及び肉体的に豊かになることが認められる施設を言う。これも天皇制同様、国民全員が納得するということはない。だからこそ、日本は間接民主主義を採用して、自らの代弁者を議会に送っている。
日本の皇室支持率は78%である。裏を返すと皇室に反対している人は2割しかいない。その2割であっても昭和天皇の写真を焼くという行為に賛同しているかといえば決してそんなことはあるまい。「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつぶすもの」が芸術作品だと見なす人はあくまでも想像の範疇だが、せいぜい人口の1%未満であろう。反対にそんなものは芸術と認めないという人は過半数を楽に超えるだろう。
ここでも憲法で定める民主主義の制約を受ける。
反戦の絵画として有名なのはピカソの描いたゲルニカであろう。ゲルニカとはナチスドイツのコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題した絵画だ。
では、ゲルニカを公共の施設で展示するのは憲法の制約を受けるか(日本国内で展示するのは現実的に無理であるだろうが)。
受けません。
まず第一に日本は戦争を恒久に放棄しているため、反戦というテーマは日本人の総意である。次に純粋にピカソの絵を見てみたいという人も相当多いと思われ、公共施設の趣旨にそぐう。
原爆が投下された広島・長崎の惨状を描いた作品などであれば堂々と展示すればよいが、昭和天皇の写真を焼くものや特攻隊員を揶揄する展示物は絶対に許されん。
総監督といういったいなにをしているのだか立場のよく分からない金髪バカの津田はしきりに「表現の自由」を盾にクソみたいなことを吠えまくっているが、まずはテメェが憲法をよく学べと言いたい。
もっともこのバカの出自をウィキペディアで調べると、『父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている』とある、生粋の非国民じゃねぇか。駄目だこりゃ。
この非国民に公金を手配した役人も重罪だ。
左翼の蛆虫というのは本当に恥ずべき存在だと思う。憲法を守れと言いながら憲法の根本を分かってないクズども。朝日新聞社で壮絶な自決を遂げた民族派右翼の野村秋介氏は真っ当な考え方をしている左翼であれば分け隔てなく接し、主義主張を超えた良好な関係を築けたという。
俺の場合、なかなかここまで達観は出来ず、左翼に対して、敵意を剥き出しにしてしまうが、それでも一応、野村さんのような考えになろうと努力はしている。自分とは異なる考え方であっても耳目を傾けようと努力はしているが、人としての礼儀はお互い最低限持ち合わせるのが成熟した民主主義のルールだと思う。昭和天皇の写真を芸術作品だからと焼き、国を慮り忸怩たる思いの中死んでいった特攻隊の方々を侮辱するような人間とまともに意見を交わせるほど残念ながら俺は人間出来ていない。
昭和天皇の写真を燃やし、足で踏みつぶす、こんなものが芸術とはちゃんちゃらおかしい。もし、これが愛知ではなく、水戸界隈の公共施設で開催されていたら、確実に金属バット持参ですべて叩き壊す。器物損壊罪で逮捕は免れんだろうが、それも致し方なし。前科もあるから執行猶予なしの実刑判決かもしれぬがそれもまた致し方なしだ。
だいたい、昭和天皇は戦争犯罪人として刑事訴追をされておらず、戦争責任云々はおかど違いだ。
左翼のゴミどもが伝家の宝刀にしている憲法による表現の自由から言ってもおかしい。
日本国憲法第1条には、『天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。』とある。
憲法に天皇は日本国民統合の象徴と定義してある、つまり、生まれたばっかりの赤ちゃんからギネスブックに載る長寿のお年寄りまで年齢、男女、宗教、思想を問わず、国民の総意として天皇を象徴としているのだ。
すると、共産党員の私は天皇制に反対しているというかもしれないが、憲法で国民統合と定義している以上、自分の政治的な信念は別にして、国民全員が天皇の存在を象徴として認めているのだということを認めなくてはならない。認めないというのであればまずは改憲をして天皇制を根本から見直さなくてはならない。そもそも、左翼の連中は改憲に反対ではないか、矛盾していることに気付かない愚か者の集団だ。
その憲法に定義された国民のシンボルを公共の施設で燃やすという行為は果たして表現の自由に当たるのか。
百歩譲ってどうしても天皇の写真を燃やすという行為をしたいのであれば公共の施設など使わず自分の家で近所迷惑にならない範囲でバカたち同士で盛り上がってバカ騒ぎをすればいいのだ。せいぜいここまでが表現の自由の範囲。
ちなみに、今回腹立たしいというのは公共の施設を使ったということでもある。
公共の施設というのは国民の信託の元に成り立っている施設だ。
国民の信託とはなにか、言うまでもなく、民主主義の原則である。
公共の施設の存在意義とは国民の過半数以上がその公共施設が存在することによって精神的及び肉体的に豊かになることが認められる施設を言う。これも天皇制同様、国民全員が納得するということはない。だからこそ、日本は間接民主主義を採用して、自らの代弁者を議会に送っている。
日本の皇室支持率は78%である。裏を返すと皇室に反対している人は2割しかいない。その2割であっても昭和天皇の写真を焼くという行為に賛同しているかといえば決してそんなことはあるまい。「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつぶすもの」が芸術作品だと見なす人はあくまでも想像の範疇だが、せいぜい人口の1%未満であろう。反対にそんなものは芸術と認めないという人は過半数を楽に超えるだろう。
ここでも憲法で定める民主主義の制約を受ける。
反戦の絵画として有名なのはピカソの描いたゲルニカであろう。ゲルニカとはナチスドイツのコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題した絵画だ。
では、ゲルニカを公共の施設で展示するのは憲法の制約を受けるか(日本国内で展示するのは現実的に無理であるだろうが)。
受けません。
まず第一に日本は戦争を恒久に放棄しているため、反戦というテーマは日本人の総意である。次に純粋にピカソの絵を見てみたいという人も相当多いと思われ、公共施設の趣旨にそぐう。
原爆が投下された広島・長崎の惨状を描いた作品などであれば堂々と展示すればよいが、昭和天皇の写真を焼くものや特攻隊員を揶揄する展示物は絶対に許されん。
総監督といういったいなにをしているのだか立場のよく分からない金髪バカの津田はしきりに「表現の自由」を盾にクソみたいなことを吠えまくっているが、まずはテメェが憲法をよく学べと言いたい。
もっともこのバカの出自をウィキペディアで調べると、『父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている』とある、生粋の非国民じゃねぇか。駄目だこりゃ。
この非国民に公金を手配した役人も重罪だ。
左翼の蛆虫というのは本当に恥ずべき存在だと思う。憲法を守れと言いながら憲法の根本を分かってないクズども。朝日新聞社で壮絶な自決を遂げた民族派右翼の野村秋介氏は真っ当な考え方をしている左翼であれば分け隔てなく接し、主義主張を超えた良好な関係を築けたという。
俺の場合、なかなかここまで達観は出来ず、左翼に対して、敵意を剥き出しにしてしまうが、それでも一応、野村さんのような考えになろうと努力はしている。自分とは異なる考え方であっても耳目を傾けようと努力はしているが、人としての礼儀はお互い最低限持ち合わせるのが成熟した民主主義のルールだと思う。昭和天皇の写真を芸術作品だからと焼き、国を慮り忸怩たる思いの中死んでいった特攻隊の方々を侮辱するような人間とまともに意見を交わせるほど残念ながら俺は人間出来ていない。