論争
- 2019/03/04
- 19:26
原爆ドームの前でピースサインして写真を写すのはアリかナシかというトピックが話題になっている。
個人的には反対、写真を写すこと自体は否定しないが多くの方が犠牲になった戦災遺構でピースサインはないだろうと思う。平気で臆面もなくピースサインできるその神経に知性はおろか、デリカシーの欠片もない行為は反対以前に人としてどうかしていると思うのだが、ちょっとだけ考えさせられたのが、「ピースサインが出来る平和な世の中になったということだから目くじらを立てることではない」という意見。
政治家をはじめとする著名人が原爆ドームの前でピースサインをしたら左右を問わず総スカン、決定的にアウトだと思うが、たまたま観光で来た十代二十代の子たちが原爆ドームの前でピースサインをする、確かに肯定は出来ないものの、平和な世の中である証を盾に取られると正直返す言葉を見失う。
この問題に解を得ようとするならあの世というものがあり、犠牲者の御霊というものが存在するとしてだ、彼らが果たしてどう思うかということに尽きると思う。
業火に焼かれ失意のうちに命を失った人にとって原爆とは怒りや悲しみ、悔しさ、憎しみなど負の感情でしかない、そこでピースサインとは無礼千万と憤りに感じるのがまあ一般的であると思うが、穏やかな心持ちで、「私たちが楽しめなかった平和をあなた方は存分に楽しみなさい、戦争のないピースサインが出来る世の中になったことは本当にいいことですよ」という人も少なからずいると思う。全員が怨嗟の念を残し、今に至るということはないはずだ。
つまり、十万人以上の方が犠牲になっているため、その方々の感情も自ずと様々であるから何が正しくて何が正しくないかなんてことは一方的に決められないと思うのである。
感情というものに絶対的な正解はない。
よくね、ネットでは呆れるほど他愛のないことが論争になり、時にエスカレートして殺すや爆破するなど事件にまで発展するが、その殆どが決定的な答えを出せないものだったりする。
STAP細胞がなかったことは再実験の場を設けてもらった小保方晴子自身がSTAP細胞を再現できなかったことから「存在しない」ということを皮肉にも自らが証明してしまった。こういった科学的な論争であればアリ、ナシは結論付けられる、また、法律という基準に即してアリ、ナシのガイドラインを定義づけする、これも分かる。
それ以外のあそこの店がまずいとか、誰それという芸能人は可愛いとか、或いはそうじゃないとか、中目黒に出来たスタバの新店舗で発売される一杯1200円のコーヒーは高すぎるとか、こんなのって結論なんか出ないでしょう。一杯1200円のコーヒー、安いと感じる人も世の中にはそれなりにいるのですから。一応、多数決で決めることは出来ますが決めたとしても最終的には本人が判断するしかないじゃない。
答えの出せない問題をあれやこれやと議論することって凄く不毛なことだと思うのです。
引っ越して以来、週に2、3回は近所の居酒屋さんに遊びに行く。
こんなこと言っちゃなんだが、自分を含めて殆どが下々に属するラインナップ。当然、酒の勢いもあり、大抵の人が何かにつけて力説して断定をする。例えば「こないだ行ったあそこの店はまずかった」という断定、確かにその人にとって不味かったのは「事実」でしょうが、そんなものは絶対的な解答でもなんでもない。俺が不味いと思うのだから誰が食っても不味いというだけの話でしかない。これが1週間前に仕入れた魚だから鮮度か落ちていたというのであればそれはうまい不味いを超越した客観的事実だからおっさんの言っていることは正しいということになるのだが、単なる好みの話を断定されてもこっちは決められようがない。
いや、問題はおっさんの断定ではなく、今度あそこの店はうめぇよ、何言ってんだ、てめぇはという話なったりすることだ。
喧々諤々、美味い不味いの話になるが、俺から言わすと、どうでもいいことに夢中になってんなと、呆れながらサワーをお代わりする。
まあそれはそれで楽しいからいいのですが、結論の出ない話に向き合うのって時間の無駄しかないと思います。
もちろん、確固たる自分の意見があって、そのうえで真っ向する意見も一先ず聞いてみるということは大事だと思います。だからといって打ち負かす必要はまったくない。実際、居酒屋でもビジネスでも、しょーもない意見であっても俺は別に論破しようとは思いません。へ~、そういう考え方があるんですね、勉強になりましたといえば角も立たんし、自分も学べる、それでいいんじゃないかと思うのですがどうなんすかねぇ。
個人的には反対、写真を写すこと自体は否定しないが多くの方が犠牲になった戦災遺構でピースサインはないだろうと思う。平気で臆面もなくピースサインできるその神経に知性はおろか、デリカシーの欠片もない行為は反対以前に人としてどうかしていると思うのだが、ちょっとだけ考えさせられたのが、「ピースサインが出来る平和な世の中になったということだから目くじらを立てることではない」という意見。
政治家をはじめとする著名人が原爆ドームの前でピースサインをしたら左右を問わず総スカン、決定的にアウトだと思うが、たまたま観光で来た十代二十代の子たちが原爆ドームの前でピースサインをする、確かに肯定は出来ないものの、平和な世の中である証を盾に取られると正直返す言葉を見失う。
この問題に解を得ようとするならあの世というものがあり、犠牲者の御霊というものが存在するとしてだ、彼らが果たしてどう思うかということに尽きると思う。
業火に焼かれ失意のうちに命を失った人にとって原爆とは怒りや悲しみ、悔しさ、憎しみなど負の感情でしかない、そこでピースサインとは無礼千万と憤りに感じるのがまあ一般的であると思うが、穏やかな心持ちで、「私たちが楽しめなかった平和をあなた方は存分に楽しみなさい、戦争のないピースサインが出来る世の中になったことは本当にいいことですよ」という人も少なからずいると思う。全員が怨嗟の念を残し、今に至るということはないはずだ。
つまり、十万人以上の方が犠牲になっているため、その方々の感情も自ずと様々であるから何が正しくて何が正しくないかなんてことは一方的に決められないと思うのである。
感情というものに絶対的な正解はない。
よくね、ネットでは呆れるほど他愛のないことが論争になり、時にエスカレートして殺すや爆破するなど事件にまで発展するが、その殆どが決定的な答えを出せないものだったりする。
STAP細胞がなかったことは再実験の場を設けてもらった小保方晴子自身がSTAP細胞を再現できなかったことから「存在しない」ということを皮肉にも自らが証明してしまった。こういった科学的な論争であればアリ、ナシは結論付けられる、また、法律という基準に即してアリ、ナシのガイドラインを定義づけする、これも分かる。
それ以外のあそこの店がまずいとか、誰それという芸能人は可愛いとか、或いはそうじゃないとか、中目黒に出来たスタバの新店舗で発売される一杯1200円のコーヒーは高すぎるとか、こんなのって結論なんか出ないでしょう。一杯1200円のコーヒー、安いと感じる人も世の中にはそれなりにいるのですから。一応、多数決で決めることは出来ますが決めたとしても最終的には本人が判断するしかないじゃない。
答えの出せない問題をあれやこれやと議論することって凄く不毛なことだと思うのです。
引っ越して以来、週に2、3回は近所の居酒屋さんに遊びに行く。
こんなこと言っちゃなんだが、自分を含めて殆どが下々に属するラインナップ。当然、酒の勢いもあり、大抵の人が何かにつけて力説して断定をする。例えば「こないだ行ったあそこの店はまずかった」という断定、確かにその人にとって不味かったのは「事実」でしょうが、そんなものは絶対的な解答でもなんでもない。俺が不味いと思うのだから誰が食っても不味いというだけの話でしかない。これが1週間前に仕入れた魚だから鮮度か落ちていたというのであればそれはうまい不味いを超越した客観的事実だからおっさんの言っていることは正しいということになるのだが、単なる好みの話を断定されてもこっちは決められようがない。
いや、問題はおっさんの断定ではなく、今度あそこの店はうめぇよ、何言ってんだ、てめぇはという話なったりすることだ。
喧々諤々、美味い不味いの話になるが、俺から言わすと、どうでもいいことに夢中になってんなと、呆れながらサワーをお代わりする。
まあそれはそれで楽しいからいいのですが、結論の出ない話に向き合うのって時間の無駄しかないと思います。
もちろん、確固たる自分の意見があって、そのうえで真っ向する意見も一先ず聞いてみるということは大事だと思います。だからといって打ち負かす必要はまったくない。実際、居酒屋でもビジネスでも、しょーもない意見であっても俺は別に論破しようとは思いません。へ~、そういう考え方があるんですね、勉強になりましたといえば角も立たんし、自分も学べる、それでいいんじゃないかと思うのですがどうなんすかねぇ。