不寛容な社会
- 2019/03/01
- 11:47
昨夜、布団に入ったがなぜか寝付けず、平成を振り返ってみたのだが、兎にも角にも平成という時代は不寛容な社会になってしまったなぁということ。
芸能人の不倫問題なんか、正直お茶の間の前にいる視聴者にとって別にどうでもいいことでしょう。昭和の時代、芸能人や政治家に妾(めかけ)がいることなど当たり前、特に問題になどならなかったが今なら大騒ぎだ。芸能人やスポーツ選手などが神妙な面持ちで謝罪するが、本来ならば謝る筋合いも、謝ってもらう言われもない。だが、謝罪もせずにいると延々とネット炎上してしまうためやはり謝罪に追い込まれる。
現在、YouTubeにダウンタウンのごっつええ感じがアップされている。平成初期に一世を風靡した伝説のコント番組といっていい。当時を思い出しながら懐かしい思いで見ている。
そのごっつええ感じだが、パワハラ、セクハラ、差別、暴力など、今なら到底放送は出来ない番組だ。例えば、番組内にはゴレンジャイという戦隊もののコントがあるのだが、毎回ダウンタウンの浜ちゃんがタレントのYOUをレイプするところから始まる。小学生が見ている夜の8時にレイプという内容も凄いが、そもそも時間を問わずレイプを笑いにすること自体、今の時代アウトだろう。今ゴレンジャイを放送したら視聴者からクレームの嵐なのは確実だ。ゴレンジャイに限らず、コントの殆どが際どい表現で成り立っているため、こんなことをいったらどうかと思うが、ダウンタウンがお笑い界の大御所として現在君臨出来るのは寛容な時代背景があったからこそなのは事実であると思う。恐らく今なら売れてはいないと思う。売りたくても売り出せない不寛容な時代なのだ。今の世に出来ることといえばせいぜいユーチューバーとしてどぎついコントを披露することぐらいじゃないかと思う。
ダウンタウンに限らず、ビートたけしや島田紳助、ドリフターズ、とんねるずなども然り、際どいブラックジョークを許す寛容な時代背景が彼らの躍進に大きく影響したことは想像に難くない。もちろん、そういったブラックジョーク的なお笑いとは一線を画したタモリや笑福亭鶴瓶のような国民的なお笑いタレントもいるが基本的にお笑いとは低俗な暴力やパワハラ、セクハラ、差別、弱いものいじめで成り立っているため、なかなかノリツッコミを基本形とするタレントには厳しい時代だなと思うのだ。
たまたま、お笑いの話をしたが社会環境そのものが健全化を求めるあまり、非常にいびつな世の中になっているのは事実でしょう。
教師が言うことを聞かない悪ガキを殴る。平成初期までは当たり前の風景だ。
俺の母校の話である。朝礼の時間に間に合わず遅刻してきた奴がいた。教師に謝らず席に着いた。激怒した教師はそいつを思いっきりぶん殴った。そいつは耳の鼓膜が破れてしまった。放課後、殴った教師は生徒宅を教頭と一緒に訪れ、両親に謝罪。
「先生、ウチのガキが悪いんですら気にしないでください。言うこと聞かなきゃもっと殴ってやってください、さすがに殺しちゃまずいが、全然殴ってもらって構わないですから、ガハハハッ」
笑って終わりにした親御さんも大したものである。結局、今なら大問題になるような話でも当時はなにもなく大団円なんて話は枚挙にいとまがない。個人的にはこれでいいと思っている。
確かに、教師や警察が淫行や万引きで捕まる、こんなクズは徹底的に叩いていいと思うが、教師が正しいしつけのために生徒を殴る、近所のおじちゃん、おばちゃんが悪ガキを叱る、こんなことまで目くじら立てて騒ぐことなのかなぁと思うのです。
先日ダムカレーなるもの不謹慎であると物議を醸した。
ダムカレーとはその名の通り、ご飯をダム、カレー(カレールー)をダム湖に見立てて器に盛りつけたカレーライスのことである。これを食べるとき、ライスを崩すと当然ルーであるカレーが決壊するため、これは不謹慎なんじゃないかと問題になっているのである。
今の時代、ここまで難癖をつけるのかと、ある意味、溜飲を下げる思いなのですが、これが広島豪雨土砂崩れカレーとでもいうのであれば確かに不謹慎であり、難癖以前に人としてどうなのという話だが、単なるダムに見立てたカレーだ。ダムがある地域では観光資源のひとつとしてダムカレーを売りにしているところが多い。こんなことをいったらなにもできん。誰もダムカレーを見てダムが決壊して大惨事、ワッハッハなんて思わないだろう。ダム湖を見た記念にダムカレーを食べる人に他意はない。正直アホなんじゃないのと思う。
叩くべき存在と叩く必要のない存在をまったく分けず、十把一絡げにしてなにかにつけて難癖をつける不寛容な社会、これが今の世の中だと思う。
もちろん、こうなったのは手軽に情報を発信できるインターネットの影響であるのは明らかだ。
ここまで書いていてなんだが、俺は世の中を変えてやろうなどという大それた考えは毛頭持っておらず、なるようにしかならないケセラセラのアナーキズムが根底にある。結局、この不寛容な社会は益々加速するはずだ。インターネットがなくならない限り、延々と続く。
それであれば、望む望まずを問わず結局受け入れるしかないのだ。不寛容な社会を嘆いても世の中は変わらないのだ。
ただ、これは俺が昭和生まれだからこそ違和感を覚えているのかもしれない、元々不寛容な社会で生まれ育った若者は不寛容な社会こそが日常風景であるから特になにも感じないのかもしれない。いつの日か昭和生まれ、平成生まれがいなくなり、不寛容社会時代生まれの人間だけが存在する世の中になれば、この不寛容さも空気や水のように当たり前すぎてなにも感じない時代になるのでしょうけど。
芸能人の不倫問題なんか、正直お茶の間の前にいる視聴者にとって別にどうでもいいことでしょう。昭和の時代、芸能人や政治家に妾(めかけ)がいることなど当たり前、特に問題になどならなかったが今なら大騒ぎだ。芸能人やスポーツ選手などが神妙な面持ちで謝罪するが、本来ならば謝る筋合いも、謝ってもらう言われもない。だが、謝罪もせずにいると延々とネット炎上してしまうためやはり謝罪に追い込まれる。
現在、YouTubeにダウンタウンのごっつええ感じがアップされている。平成初期に一世を風靡した伝説のコント番組といっていい。当時を思い出しながら懐かしい思いで見ている。
そのごっつええ感じだが、パワハラ、セクハラ、差別、暴力など、今なら到底放送は出来ない番組だ。例えば、番組内にはゴレンジャイという戦隊もののコントがあるのだが、毎回ダウンタウンの浜ちゃんがタレントのYOUをレイプするところから始まる。小学生が見ている夜の8時にレイプという内容も凄いが、そもそも時間を問わずレイプを笑いにすること自体、今の時代アウトだろう。今ゴレンジャイを放送したら視聴者からクレームの嵐なのは確実だ。ゴレンジャイに限らず、コントの殆どが際どい表現で成り立っているため、こんなことをいったらどうかと思うが、ダウンタウンがお笑い界の大御所として現在君臨出来るのは寛容な時代背景があったからこそなのは事実であると思う。恐らく今なら売れてはいないと思う。売りたくても売り出せない不寛容な時代なのだ。今の世に出来ることといえばせいぜいユーチューバーとしてどぎついコントを披露することぐらいじゃないかと思う。
ダウンタウンに限らず、ビートたけしや島田紳助、ドリフターズ、とんねるずなども然り、際どいブラックジョークを許す寛容な時代背景が彼らの躍進に大きく影響したことは想像に難くない。もちろん、そういったブラックジョーク的なお笑いとは一線を画したタモリや笑福亭鶴瓶のような国民的なお笑いタレントもいるが基本的にお笑いとは低俗な暴力やパワハラ、セクハラ、差別、弱いものいじめで成り立っているため、なかなかノリツッコミを基本形とするタレントには厳しい時代だなと思うのだ。
たまたま、お笑いの話をしたが社会環境そのものが健全化を求めるあまり、非常にいびつな世の中になっているのは事実でしょう。
教師が言うことを聞かない悪ガキを殴る。平成初期までは当たり前の風景だ。
俺の母校の話である。朝礼の時間に間に合わず遅刻してきた奴がいた。教師に謝らず席に着いた。激怒した教師はそいつを思いっきりぶん殴った。そいつは耳の鼓膜が破れてしまった。放課後、殴った教師は生徒宅を教頭と一緒に訪れ、両親に謝罪。
「先生、ウチのガキが悪いんですら気にしないでください。言うこと聞かなきゃもっと殴ってやってください、さすがに殺しちゃまずいが、全然殴ってもらって構わないですから、ガハハハッ」
笑って終わりにした親御さんも大したものである。結局、今なら大問題になるような話でも当時はなにもなく大団円なんて話は枚挙にいとまがない。個人的にはこれでいいと思っている。
確かに、教師や警察が淫行や万引きで捕まる、こんなクズは徹底的に叩いていいと思うが、教師が正しいしつけのために生徒を殴る、近所のおじちゃん、おばちゃんが悪ガキを叱る、こんなことまで目くじら立てて騒ぐことなのかなぁと思うのです。
先日ダムカレーなるもの不謹慎であると物議を醸した。
ダムカレーとはその名の通り、ご飯をダム、カレー(カレールー)をダム湖に見立てて器に盛りつけたカレーライスのことである。これを食べるとき、ライスを崩すと当然ルーであるカレーが決壊するため、これは不謹慎なんじゃないかと問題になっているのである。
今の時代、ここまで難癖をつけるのかと、ある意味、溜飲を下げる思いなのですが、これが広島豪雨土砂崩れカレーとでもいうのであれば確かに不謹慎であり、難癖以前に人としてどうなのという話だが、単なるダムに見立てたカレーだ。ダムがある地域では観光資源のひとつとしてダムカレーを売りにしているところが多い。こんなことをいったらなにもできん。誰もダムカレーを見てダムが決壊して大惨事、ワッハッハなんて思わないだろう。ダム湖を見た記念にダムカレーを食べる人に他意はない。正直アホなんじゃないのと思う。
叩くべき存在と叩く必要のない存在をまったく分けず、十把一絡げにしてなにかにつけて難癖をつける不寛容な社会、これが今の世の中だと思う。
もちろん、こうなったのは手軽に情報を発信できるインターネットの影響であるのは明らかだ。
ここまで書いていてなんだが、俺は世の中を変えてやろうなどという大それた考えは毛頭持っておらず、なるようにしかならないケセラセラのアナーキズムが根底にある。結局、この不寛容な社会は益々加速するはずだ。インターネットがなくならない限り、延々と続く。
それであれば、望む望まずを問わず結局受け入れるしかないのだ。不寛容な社会を嘆いても世の中は変わらないのだ。
ただ、これは俺が昭和生まれだからこそ違和感を覚えているのかもしれない、元々不寛容な社会で生まれ育った若者は不寛容な社会こそが日常風景であるから特になにも感じないのかもしれない。いつの日か昭和生まれ、平成生まれがいなくなり、不寛容社会時代生まれの人間だけが存在する世の中になれば、この不寛容さも空気や水のように当たり前すぎてなにも感じない時代になるのでしょうけど。