覚悟しても受け入れ難い話
- 2018/08/27
- 22:03
漫画家のさくらももこさんが鬼籍に入られた、享年53歳、あまりにも早すぎる別れである。
私事であり、あえてブログにも書かずにいたが、自分が唯一兄貴分と認めるIさんが今月のはじめにすい臓がんで亡くなった、享年55歳。
昨年の暮れ、電話を貰い、唐突に、「いや~、大した話じゃないけど、俺、ガンになっちゃった、すい臓がんだって、冴えねぇな~、ハハハ・・・」と言われたときはあまりのショックで言葉がなかった。電話を切った後、すい臓がんをネットで調べると過酷なことしか書いていない。希望の持てる内容はほぼ皆無であった。当然、自身も見たであろう。いったいどういう気持ちでスマホの画面を見ていたか。
今更だが、とにかくタバコが好きな兄貴であったため、生前、「兄貴、少しタバコは控えた方がいいですよ」と、事あるごとに言っていたのだが、決して聞いてはくれなかった。ただ、奥様に聞くと、意識がまだハッキリとしていた最期の最期にセブンスターを2本吸えたというのだから本望である気もする。遺族でない俺が言うのも憚れるがタバコを吸わずに数日生きながらえるのであれば仮に数日命が短くなろうとも本人の意思を尊重して好きなタバコを吸わせてあげた方が報われるような気がする。
がん報告を受けてからも月に数回、定期的に電話で連絡を取ってはいたのだが、一度も会えずに最期を迎えてしまった。
会うと、それが今生の別れになりそうで、会えなかったのだ。近すぎるがゆえ、きっと良くなりますよと綺麗ごとは言えず、会えばきっと本音で最期の時を語り合ってしまう、それが怖かったのだ、今となってはそれが悔やまれる。
月初めに電話を貰った時、嬉々として電話を出た自分が恥ずかしい。
「お疲れ様です。体調はどうですか?」
「Iの娘です。実は父が昨日亡くなりまして・・・」
俺は言葉を失った。娘さんから告別式の日時を聞いたが結局葬式には行けなかった。
二十代のころから慕い、今だから言うが兄貴が俺の代わりにパクられ、留置場に入っていたこともある。泣き言を言わず、全部罪を被ってくれた。震災の時、何度も何度も連絡を寄越し、身を案じてくれた。出来の悪い弟だ、叱られたことも諭されたこともある。二十年来の付き合いだが、この二十年間は血を分けた実の弟よりもよっぽど濃い時間だ。
だが、葬式には行けなかった。死を認めたくなかったり、悔やんでいる自分の姿を見せたくなかった。複雑な思いが交差して、行けず仕舞い。草葉の陰で最後まで出来の悪い弟だと呆れているであろう。
すい臓がんと聞いたときから俺も死を覚悟した。だが、認めたくないもう一人の俺がいて、たまに電話をして昔話やバカ話をする、この瞬間がいつまでも続くものと思っていた。
お盆が明け、いつまでもこのままじゃいけないと、先週兄貴の家を訪れ、お位牌に手を合わせた。
奥様と昔話をして、兄貴を偲ぶと、あまりにも儚くて涙がこぼれた。
本来、このことはブログには記さず、自分の胸にだけそっと秘めておこうと思ったのだが、さくらももこさんのあまりにも早すぎる死と享年55歳の兄貴の死が重なり、まったく文章にはなっていないと思うが書いてみた。
私事であり、あえてブログにも書かずにいたが、自分が唯一兄貴分と認めるIさんが今月のはじめにすい臓がんで亡くなった、享年55歳。
昨年の暮れ、電話を貰い、唐突に、「いや~、大した話じゃないけど、俺、ガンになっちゃった、すい臓がんだって、冴えねぇな~、ハハハ・・・」と言われたときはあまりのショックで言葉がなかった。電話を切った後、すい臓がんをネットで調べると過酷なことしか書いていない。希望の持てる内容はほぼ皆無であった。当然、自身も見たであろう。いったいどういう気持ちでスマホの画面を見ていたか。
今更だが、とにかくタバコが好きな兄貴であったため、生前、「兄貴、少しタバコは控えた方がいいですよ」と、事あるごとに言っていたのだが、決して聞いてはくれなかった。ただ、奥様に聞くと、意識がまだハッキリとしていた最期の最期にセブンスターを2本吸えたというのだから本望である気もする。遺族でない俺が言うのも憚れるがタバコを吸わずに数日生きながらえるのであれば仮に数日命が短くなろうとも本人の意思を尊重して好きなタバコを吸わせてあげた方が報われるような気がする。
がん報告を受けてからも月に数回、定期的に電話で連絡を取ってはいたのだが、一度も会えずに最期を迎えてしまった。
会うと、それが今生の別れになりそうで、会えなかったのだ。近すぎるがゆえ、きっと良くなりますよと綺麗ごとは言えず、会えばきっと本音で最期の時を語り合ってしまう、それが怖かったのだ、今となってはそれが悔やまれる。
月初めに電話を貰った時、嬉々として電話を出た自分が恥ずかしい。
「お疲れ様です。体調はどうですか?」
「Iの娘です。実は父が昨日亡くなりまして・・・」
俺は言葉を失った。娘さんから告別式の日時を聞いたが結局葬式には行けなかった。
二十代のころから慕い、今だから言うが兄貴が俺の代わりにパクられ、留置場に入っていたこともある。泣き言を言わず、全部罪を被ってくれた。震災の時、何度も何度も連絡を寄越し、身を案じてくれた。出来の悪い弟だ、叱られたことも諭されたこともある。二十年来の付き合いだが、この二十年間は血を分けた実の弟よりもよっぽど濃い時間だ。
だが、葬式には行けなかった。死を認めたくなかったり、悔やんでいる自分の姿を見せたくなかった。複雑な思いが交差して、行けず仕舞い。草葉の陰で最後まで出来の悪い弟だと呆れているであろう。
すい臓がんと聞いたときから俺も死を覚悟した。だが、認めたくないもう一人の俺がいて、たまに電話をして昔話やバカ話をする、この瞬間がいつまでも続くものと思っていた。
お盆が明け、いつまでもこのままじゃいけないと、先週兄貴の家を訪れ、お位牌に手を合わせた。
奥様と昔話をして、兄貴を偲ぶと、あまりにも儚くて涙がこぼれた。
本来、このことはブログには記さず、自分の胸にだけそっと秘めておこうと思ったのだが、さくらももこさんのあまりにも早すぎる死と享年55歳の兄貴の死が重なり、まったく文章にはなっていないと思うが書いてみた。