宗教論
- 2018/07/26
- 22:43
オウムの死刑囚が全員吊るされた。
オウム真理教という宗教はまったく別次元として自分は宗教の類を一切信じていない。元々、それほど信じてはいなかったが東日本大震災を機に考えが大きく変わった。
なんの罪もないいわゆるイイ人がたくさんお亡くなりになった。溺死というのは大変苦しい死に方だという。多くの方が苦しんで亡くなった。
宗教はきっとあの世で幸せに暮らしていると教える。
俺はあの世も来世もまったくどうでもいい、現世を楽しみたい。恐らくお亡くなりになった多くの方もそうだったに違いない、無念なままお亡くなりになった方が殆どでしょう。なのに誰も見たことのない極楽浄土を説かれたところでそんなものはご都合主義の詭弁に過ぎないではないかと憤りを感じる。大切なのはあの世なんかじゃない、生きているこの瞬間に他ならない。だから、あの世で幸せにならなくてもいい、今、幸せに暮らしたいと願うのが人間ではないのか。基本的に今もこの考えに変わりはないのだが、何年か前にとあるネットの書き込みを見てハッとなった、世の中には無信仰な人はいないというのだ。
おいおい、バカを言うな、少なくとも俺は無信仰だと、思わず実際に声を出しそうになったのだが、無信仰の人というのは「宗教や神様を信じない教」に入信しているという。何故なら宗教を信仰しないという時点で是々非々は別にして宗教をなにかしら意識しているからこそ自我が芽生え、宗教に対して反発した発想になる、つまりそれはカテゴリー的にはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、などと同様、「宗教や神様を信じない教」だというのだ。本当に宗教を意識していないのてあればわざわざ無信仰などとは言う必要がない。まったく無我の境地で宗教を意識していなければキョトンとしてしまうだろう。嫌悪感を示す時点で大なり小なり宗教を意識している証左でもある。
もちろん異論はあると思うが、少なくとも俺はなるほどと膝を打ち、溜飲を下げたのをよく覚えている。俺は無信仰教に入信しているということなのだ。
だからといって、先に述べた通り考え方は変わらぬが少しだけ気が楽になったのも事実だ。震災後、暫くはバカバカしくて神社仏閣巡りをすべてストップしていたが、最近は胸のつかえが少しだけ下りたこともあり、信仰心とはまったく別に神社や寺にも行く。
また、これもネットの話であるが、信仰心というのは実は人間を成長させるのに重要な役割を担っているというのだ。
「大学に受かりますように」、「おばあちゃんの病気が治りますように」、「素敵な彼氏が見つかりますように」、「サッカーが上手になれますように」、まあなんでもいいのだが、神社やお寺、お墓、仏壇などに祈るとする。
むろん科学的に神様がなんとかしてくれるということはないが、願を賭けるということは一種の自己暗示、サブリミナル効果があり、その目標に向かって自然と努力するから結果が報われることが多いというのだ。これもまたなるほどと思った。だから、祈るという行為は決して卑下すべきものではないのだなと、考えを改めた(だからといって俺はせんが)。
なお、ここに書いたことはあくまでも個人的な俺の考えであり、(違法性のない)宗教を信仰している人を侮辱する性質のものではない。信仰によって気持ちが前向きになり、生きる価値を見出しているのであればそれを他人がとやかく言うのはお門違い、そのぐらいの分別は弁えているつもりです。
オウム真理教という宗教はまったく別次元として自分は宗教の類を一切信じていない。元々、それほど信じてはいなかったが東日本大震災を機に考えが大きく変わった。
なんの罪もないいわゆるイイ人がたくさんお亡くなりになった。溺死というのは大変苦しい死に方だという。多くの方が苦しんで亡くなった。
宗教はきっとあの世で幸せに暮らしていると教える。
俺はあの世も来世もまったくどうでもいい、現世を楽しみたい。恐らくお亡くなりになった多くの方もそうだったに違いない、無念なままお亡くなりになった方が殆どでしょう。なのに誰も見たことのない極楽浄土を説かれたところでそんなものはご都合主義の詭弁に過ぎないではないかと憤りを感じる。大切なのはあの世なんかじゃない、生きているこの瞬間に他ならない。だから、あの世で幸せにならなくてもいい、今、幸せに暮らしたいと願うのが人間ではないのか。基本的に今もこの考えに変わりはないのだが、何年か前にとあるネットの書き込みを見てハッとなった、世の中には無信仰な人はいないというのだ。
おいおい、バカを言うな、少なくとも俺は無信仰だと、思わず実際に声を出しそうになったのだが、無信仰の人というのは「宗教や神様を信じない教」に入信しているという。何故なら宗教を信仰しないという時点で是々非々は別にして宗教をなにかしら意識しているからこそ自我が芽生え、宗教に対して反発した発想になる、つまりそれはカテゴリー的にはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、などと同様、「宗教や神様を信じない教」だというのだ。本当に宗教を意識していないのてあればわざわざ無信仰などとは言う必要がない。まったく無我の境地で宗教を意識していなければキョトンとしてしまうだろう。嫌悪感を示す時点で大なり小なり宗教を意識している証左でもある。
もちろん異論はあると思うが、少なくとも俺はなるほどと膝を打ち、溜飲を下げたのをよく覚えている。俺は無信仰教に入信しているということなのだ。
だからといって、先に述べた通り考え方は変わらぬが少しだけ気が楽になったのも事実だ。震災後、暫くはバカバカしくて神社仏閣巡りをすべてストップしていたが、最近は胸のつかえが少しだけ下りたこともあり、信仰心とはまったく別に神社や寺にも行く。
また、これもネットの話であるが、信仰心というのは実は人間を成長させるのに重要な役割を担っているというのだ。
「大学に受かりますように」、「おばあちゃんの病気が治りますように」、「素敵な彼氏が見つかりますように」、「サッカーが上手になれますように」、まあなんでもいいのだが、神社やお寺、お墓、仏壇などに祈るとする。
むろん科学的に神様がなんとかしてくれるということはないが、願を賭けるということは一種の自己暗示、サブリミナル効果があり、その目標に向かって自然と努力するから結果が報われることが多いというのだ。これもまたなるほどと思った。だから、祈るという行為は決して卑下すべきものではないのだなと、考えを改めた(だからといって俺はせんが)。
なお、ここに書いたことはあくまでも個人的な俺の考えであり、(違法性のない)宗教を信仰している人を侮辱する性質のものではない。信仰によって気持ちが前向きになり、生きる価値を見出しているのであればそれを他人がとやかく言うのはお門違い、そのぐらいの分別は弁えているつもりです。