ダーウィニズム的な優生思想
- 2018/07/23
- 18:38
植松が前代未聞の大事件を起こしてから間もなく2年が経とうとしている。
なんで2年も前の事件なのに未だに裁判が起きないのかといえば公判前整理手続に手間取っているから。公判前整理手続とは重大事件の場合、裁判がスムーズに進むよう予め裁判官、検事、弁護士間で事件の争点や証拠などを整理共有して準備をしておくことである。特に裁判員裁判の場合、前もって事件について証拠や争点を開示しておかないと、裁判そのものが長引いてしまい、裁判員に多大な負担を掛けるため、必ず公判前整理手続は行われる。
さて、その植松だが相変わらず謝罪の言葉はないという。
このへん実は相当難しい問題なのであるが罪を認めて謝罪をしてしまうと植松自身のアイデンティティの崩壊にも繋がり、植松自身の闘争は論理が破たんしてしまう。恐らく死刑判決が下されるであろうが最後まで植松は罪を認めないであろう。一旦罪を認めてしまうと亡くなった障害者たちは意味もなく殺された、言葉は悪いが無駄死にしたという事にもなってしまう。
「ずっと車いすに縛られて暮らすことが幸せなのか。周りを不幸にする。最近急にそう思うようになった、それはナチスの思想である」
マスコミ経由の情報ゆえ、どこまで真実か分からぬが植松の言質だという。
「人類の歴史とはつまるところ、民族、人種間でのレーベンスラウム(生存圏)を懸けた闘争のことをいい、その闘争に価値を見い出せないものは生きるに値しない」(ヒトラー・わが闘争より)
ナチスドイツのT4作戦、優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。障碍者を中心に推計で15万人が「民族の血を劣化させる」という理由でガス殺された。ナチスドイツというとユダヤ人絶滅政策が有名であるがT4作戦の方が歴史は古く、同じアーリア人であっても障碍者は生きる価値がないと決めつけた点で考えようによってはユダヤ人虐殺より根が深いといえるだろう。
正直なことをいうと、自分自身、ヒトラーのわが闘争を否定するだけの明確な答えを持ち合わせていない。
もちろん、植松のように事件を起こすことは間違ってもありえないが、わが子が生まれるときひたすら祈ったのはバカでも器量が悪くてもいいから五体満足な子でありますようにのただ一点である。偽らざる誠の気持ちである。これが親としての真っ当な感覚であると思うのだが違うのでしょうか。
たまにネットやテレビなどで障害を持つ子の親が障害のある子を産んで私はとっても幸せだと言ってるのを見かけるが、本音は健常者がよかったはずだろう、障害者と分かった途端途方に暮れたのであろうと、どうしてもその言葉の裏側が隠した指の隙間から見え隠れするような気がしてしまい、なんだか偽善的に思えてしまう。またやまゆり園の事件を見て不思議なのは本当に愛しい我が子だといいながら結局自分では子育てをせず、施設に預けている。この矛盾が素直に受け入れられない。本当に目に入れても痛くないほどの可愛い子供であるならどんなことがあろうとも普通は施設になど預けず自分で育てるものではないか、心のどこかでは厄介者だと感じているのではないかと訝しく思ってしまう。
くどいがだからなんだということはなく、法律に則って支援施設を利用しているのであればそれこそ大きな御世話であるがそこらへんがモヤモヤしているのも事実である。
本音を言えばこのモヤモヤを打破するほどの正論を誰よりも俺自身が欲している。
障碍者と健常者が共存する幸せな世の中こそ健全な社会であるということを論理的に立証して欲しいのだ。そうでないと、ダーウィニズム的な優生思想に支配され、ナチズムに益々傾倒してしまう。綺麗ごとが通用するのであればハナから出生前診断なんてものはいらんだろうと思ってしまう。命の選別、人間が高度な文明社会を築いていく以上、やむを得ないことではないだろうかと思うのである。
誰か論理的にこの俺を打ち負かしてください。
なんで2年も前の事件なのに未だに裁判が起きないのかといえば公判前整理手続に手間取っているから。公判前整理手続とは重大事件の場合、裁判がスムーズに進むよう予め裁判官、検事、弁護士間で事件の争点や証拠などを整理共有して準備をしておくことである。特に裁判員裁判の場合、前もって事件について証拠や争点を開示しておかないと、裁判そのものが長引いてしまい、裁判員に多大な負担を掛けるため、必ず公判前整理手続は行われる。
さて、その植松だが相変わらず謝罪の言葉はないという。
このへん実は相当難しい問題なのであるが罪を認めて謝罪をしてしまうと植松自身のアイデンティティの崩壊にも繋がり、植松自身の闘争は論理が破たんしてしまう。恐らく死刑判決が下されるであろうが最後まで植松は罪を認めないであろう。一旦罪を認めてしまうと亡くなった障害者たちは意味もなく殺された、言葉は悪いが無駄死にしたという事にもなってしまう。
「ずっと車いすに縛られて暮らすことが幸せなのか。周りを不幸にする。最近急にそう思うようになった、それはナチスの思想である」
マスコミ経由の情報ゆえ、どこまで真実か分からぬが植松の言質だという。
「人類の歴史とはつまるところ、民族、人種間でのレーベンスラウム(生存圏)を懸けた闘争のことをいい、その闘争に価値を見い出せないものは生きるに値しない」(ヒトラー・わが闘争より)
ナチスドイツのT4作戦、優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。障碍者を中心に推計で15万人が「民族の血を劣化させる」という理由でガス殺された。ナチスドイツというとユダヤ人絶滅政策が有名であるがT4作戦の方が歴史は古く、同じアーリア人であっても障碍者は生きる価値がないと決めつけた点で考えようによってはユダヤ人虐殺より根が深いといえるだろう。
正直なことをいうと、自分自身、ヒトラーのわが闘争を否定するだけの明確な答えを持ち合わせていない。
もちろん、植松のように事件を起こすことは間違ってもありえないが、わが子が生まれるときひたすら祈ったのはバカでも器量が悪くてもいいから五体満足な子でありますようにのただ一点である。偽らざる誠の気持ちである。これが親としての真っ当な感覚であると思うのだが違うのでしょうか。
たまにネットやテレビなどで障害を持つ子の親が障害のある子を産んで私はとっても幸せだと言ってるのを見かけるが、本音は健常者がよかったはずだろう、障害者と分かった途端途方に暮れたのであろうと、どうしてもその言葉の裏側が隠した指の隙間から見え隠れするような気がしてしまい、なんだか偽善的に思えてしまう。またやまゆり園の事件を見て不思議なのは本当に愛しい我が子だといいながら結局自分では子育てをせず、施設に預けている。この矛盾が素直に受け入れられない。本当に目に入れても痛くないほどの可愛い子供であるならどんなことがあろうとも普通は施設になど預けず自分で育てるものではないか、心のどこかでは厄介者だと感じているのではないかと訝しく思ってしまう。
くどいがだからなんだということはなく、法律に則って支援施設を利用しているのであればそれこそ大きな御世話であるがそこらへんがモヤモヤしているのも事実である。
本音を言えばこのモヤモヤを打破するほどの正論を誰よりも俺自身が欲している。
障碍者と健常者が共存する幸せな世の中こそ健全な社会であるということを論理的に立証して欲しいのだ。そうでないと、ダーウィニズム的な優生思想に支配され、ナチズムに益々傾倒してしまう。綺麗ごとが通用するのであればハナから出生前診断なんてものはいらんだろうと思ってしまう。命の選別、人間が高度な文明社会を築いていく以上、やむを得ないことではないだろうかと思うのである。
誰か論理的にこの俺を打ち負かしてください。