少し考えれば分ると思うのですが
- 2018/04/20
- 14:14
昨日のブログにガチで答えるのであれば迷わずフルスイング。
緩い球が来ているのにわざわざ見逃す必要ってない。これは単に監督が無能なだけ。しかも、監督の性格のいやらしさはチームメイトの前でネチネチと叱責。
大勢の前でミスをなじられることは屈辱以外の何物でもない。いうのであれば誰もいないところに個人的に呼んで、「チームとしてみんな頑張っているのだから、一応、俺(監督)の指示は聞くように。でもまあ、あのヒットはよかった。あの緩い球を見逃さなかったお前の判断はさすがだ。これからも頑張ってくれよな(ポーンと肩を叩く)」と話し、みんなの前では県大会に出場が決まったことの喜びを共有する。これが名将の判断。少なくとも俺ならそうする。
もちろん、ケースバイケースではある。
傷だらけのフラフラな敵兵が目の前に現れた。下士官がこれは千載一遇の僥倖だと銃口を向ける。しかし、上官は下士官の銃身とっさにはねのけて慌てて撃つのを制止した。腑に落ちず怪訝そうな顔をする下士官。
こういった場合は上官の指示に従うべきです。上官は敵兵の傷を手当して、飯を食わせあわよくば敵のなにか重要な情報を聞き出そうと考えた。殺すのはそのあとでもいいと考えた。撃ち殺してしまったら身も蓋もないがとりあえず負傷した敵兵を慌てて殺す必要もないための判断である。
これって少年野球とはまったく次元が違う話でしょう。
『「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。(星野君の二塁打より)』
あのよう、「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」、これな、考え方がおかしかねぇ?勝手にフルスイングして三振してしまったら、当然監督からは大目玉、チームメイトからは総スカンというリスクを犯してフルスイングをした。そのフルスイングには二つ意味があり、単純に自分がヒーローになりたかったということと、勝ってチームメイトを県大会に連れていきたいという二つの思い。この思いがクロスした結果のフルスイングだ。
1つ目のヒーローはいわゆる自己承認欲求。これは程度の差こそあれ人間の本能といえるから仕方がない、度を超すとナルシストと呼ぶがこの文章を読む限り、星野少年にその片鱗は伺えない。揚げ足を取るなら監督の出したバントの指示だって自分の出した指示を認められたいという自己承認欲求だ。その指示が絶対的に正しかったことではないというのは星野君の放った二塁打が皮肉にも証明してしまっている。問題は2つ目の方。ここでいう社会はコミュニティである野球チーム、それは分かりますよね?その野球チームをよくしようとして星野少年はフルスイングした。これは常識的に考えてそうでしょう。だから、社会に出たって云々は完全なる的外れ。自分のチームである社会を良くしようとしてフルスイングをしたのだから的外れ。
実はこれって、今の官僚たちの問題にも繋がる。
上司が公文書を改竄しろというから部下は改竄したんでしょ。その結果、二人が苦にして自殺。極論を言えば監督の言ってることってこれでしょう。明らかに公文書の改竄という間違った判断であっても上司(或いは政治家)の命令には従うことは正しいってことだよね。監督は仮に悪事であっても指示に従うことが正しく、それが社会をよくするためだって言っているんだろう。だって、監督の出したバントの指示は少なくとも星野君が二塁打を放って勝てたことからも誤りとは言えないまでも正解だったとも言えない。唯一の正解は「バントでイケ、但し、緩い球が来たら迷わず触れ」だもん。
正しい社会とは上司が改竄を指示してもそれは悪いことだからと拒否することが出来る社会。
これもまた極論だが、上司があそこのコンビニからパンかっぱらってこいとか、アイツ気に入らないから殺してしまえと言えば殺してしまうんかいって話。随分ヤクザな話だな、おい。
戦国時代であっても平手政秀や大久保彦左衛門のように主君を諫めるものはいた。
今回、この星野君の二塁打を読んで少なくともいえるのは少年野球の監督に指示に従わないことと社会に出て大成しないはまったくの別の話だってこと。その別の話が別の話でないというのであれば役所の公文書改竄事件だってアリという事になってしまう。いうまでもなくナシです。
緩い球が来ているのにわざわざ見逃す必要ってない。これは単に監督が無能なだけ。しかも、監督の性格のいやらしさはチームメイトの前でネチネチと叱責。
大勢の前でミスをなじられることは屈辱以外の何物でもない。いうのであれば誰もいないところに個人的に呼んで、「チームとしてみんな頑張っているのだから、一応、俺(監督)の指示は聞くように。でもまあ、あのヒットはよかった。あの緩い球を見逃さなかったお前の判断はさすがだ。これからも頑張ってくれよな(ポーンと肩を叩く)」と話し、みんなの前では県大会に出場が決まったことの喜びを共有する。これが名将の判断。少なくとも俺ならそうする。
もちろん、ケースバイケースではある。
傷だらけのフラフラな敵兵が目の前に現れた。下士官がこれは千載一遇の僥倖だと銃口を向ける。しかし、上官は下士官の銃身とっさにはねのけて慌てて撃つのを制止した。腑に落ちず怪訝そうな顔をする下士官。
こういった場合は上官の指示に従うべきです。上官は敵兵の傷を手当して、飯を食わせあわよくば敵のなにか重要な情報を聞き出そうと考えた。殺すのはそのあとでもいいと考えた。撃ち殺してしまったら身も蓋もないがとりあえず負傷した敵兵を慌てて殺す必要もないための判断である。
これって少年野球とはまったく次元が違う話でしょう。
『「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。(星野君の二塁打より)』
あのよう、「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」、これな、考え方がおかしかねぇ?勝手にフルスイングして三振してしまったら、当然監督からは大目玉、チームメイトからは総スカンというリスクを犯してフルスイングをした。そのフルスイングには二つ意味があり、単純に自分がヒーローになりたかったということと、勝ってチームメイトを県大会に連れていきたいという二つの思い。この思いがクロスした結果のフルスイングだ。
1つ目のヒーローはいわゆる自己承認欲求。これは程度の差こそあれ人間の本能といえるから仕方がない、度を超すとナルシストと呼ぶがこの文章を読む限り、星野少年にその片鱗は伺えない。揚げ足を取るなら監督の出したバントの指示だって自分の出した指示を認められたいという自己承認欲求だ。その指示が絶対的に正しかったことではないというのは星野君の放った二塁打が皮肉にも証明してしまっている。問題は2つ目の方。ここでいう社会はコミュニティである野球チーム、それは分かりますよね?その野球チームをよくしようとして星野少年はフルスイングした。これは常識的に考えてそうでしょう。だから、社会に出たって云々は完全なる的外れ。自分のチームである社会を良くしようとしてフルスイングをしたのだから的外れ。
実はこれって、今の官僚たちの問題にも繋がる。
上司が公文書を改竄しろというから部下は改竄したんでしょ。その結果、二人が苦にして自殺。極論を言えば監督の言ってることってこれでしょう。明らかに公文書の改竄という間違った判断であっても上司(或いは政治家)の命令には従うことは正しいってことだよね。監督は仮に悪事であっても指示に従うことが正しく、それが社会をよくするためだって言っているんだろう。だって、監督の出したバントの指示は少なくとも星野君が二塁打を放って勝てたことからも誤りとは言えないまでも正解だったとも言えない。唯一の正解は「バントでイケ、但し、緩い球が来たら迷わず触れ」だもん。
正しい社会とは上司が改竄を指示してもそれは悪いことだからと拒否することが出来る社会。
これもまた極論だが、上司があそこのコンビニからパンかっぱらってこいとか、アイツ気に入らないから殺してしまえと言えば殺してしまうんかいって話。随分ヤクザな話だな、おい。
戦国時代であっても平手政秀や大久保彦左衛門のように主君を諫めるものはいた。
今回、この星野君の二塁打を読んで少なくともいえるのは少年野球の監督に指示に従わないことと社会に出て大成しないはまったくの別の話だってこと。その別の話が別の話でないというのであれば役所の公文書改竄事件だってアリという事になってしまう。いうまでもなくナシです。