一昨日書いた通り、伯父さんが亡くなった。
今日はお通夜だった。
俺からすればさ、役場のナンバー3に迄なり、子にも恵まれ、孫にも恵まれ、休みの日は好きなパチンコをしたり、旅行に行ったりと、悠々自適、サラリーマンとしてはかなり上出来な人生をまっとうしたんじゃないかと思っていたのだが、親父がお見舞いに行ったとき、「出来ればあと10年生きたかったなぁ、孫が大きくなるのを見たかった…」と語っていたらしいんだよね。
俺もその話を親父から聞いた時は考えさせられたなぁ。
死ぬときに何の未練もないって人はいったいどれぐらいいるのだろうか。
昨年の震災の時、俺も死を意識した。
どうせ死ぬなら前のめりに、格好よく死んでやろうと覚悟は決めたが未練はなかったかといったら嘘になる。
単に抗えない運命を受け入れる、いわば諦めの境地というだけの話であり、未練云々はまったくの別の次元の話である。
もっとも、人間なんていうのはそもそもが煩悩の塊、他の動物と違い、余計な知恵を持っている分、未練を糧にして生きているという側面があるのもまた事実である。
余計な知恵がなければ、家は雨露だけしのげればそれでよし、服も寒さをしのげればそれでよし、食べ物は腹を満たせば何でもよしと、動物と変わらぬ生活になってしまう。
人間は未練があるからこそ、未練を残さぬようにと、昨日より今日、今日より明日、日々必死に生き、進化を重ねてきた。
伯父さんが悔いを残して死んだのは確かに無念なことかも知れないが、だからといって満たされてない人生かといえば絶対にそんなことはない。
孫の行く末を見たかったという未練は残ってしまったが、その分思いを託された孫は伯父さんの意志を継いですくすくと健やかな育てばいい、また、まわりの人間は伯父さんの代わりに孫の行く末を温かく見守ってやればいい、これが一番の供養であり、伯父さんの未練を無駄にしないことだと思う。
少なくとも俺はそう思う。
心より合掌。