想起
- 2018/03/11
- 12:51
震災当日、パソコンスクールの授業が終わり、家に帰るのもまだ早く、宝島というパチンコ屋さんで海物語を打っていました。打っていましたと言っても打ち始めて殆ど時間は経っていない、そこらへん記憶が曖昧なのだが、学校の授業が14時までであったとすると、恐らく10分程度だと思われる。もちろん、そんな短時間じゃ玉は出ていない。
すると、今まで経験したことのない、猛烈な揺れを感じ、店を飛び出す。
荒波の中、船に乗っているような凄まじい揺れ。店を飛び出して、目の前にあるミニストップの駐車場に避難する。電柱からミニストップに繋がる電線がバチンと切れ、切れ口から青白い火花が飛び、ミニストップ内の電気が落ちて真っ暗になった。
あちらこちらで空襲警報さながらのサイレンの音、パトカー、消防、救急車、入り乱れて今まで聞いたことのない凄いサイレンの音だ。同時にカラスも驚いたのだろう、沢山のカラスがカーカーと鳴き喚いていた。鉛色の曇り空が恐怖に拍車をかける。
まずここまでであるが、パチンコを打っていたのはよく覚えており、パチンコ屋の建物が倒壊したらヤバいと思い、向かいのミニストップに向かったことはしっかり覚えているのだが、パチンコ屋からミニストップに向かうまでの数十秒の記憶がスッポリ抜け落ちている。道路を渡ったのは確実なのだが、どうやって渡ったのかまったく思い出せない。気づいたらミニストップの駐車場にいたという感じである。むろん、パチンコ屋ですから台のガラスが割れたとか、積んであったドル箱の玉が倒れて床一面がパチンコ玉で溢れたという記憶があって然るべきであるはずだが、まったくそういう情景の記憶がないのである。逃げるのに必死だったのだと思う。
倒れるものがないミニストップの駐車場には多くの人が溢れていた。爺さんがポールになっているミニストップの看板にしがみついており、上から看板が落ちてきたら危険なので、「離れろ」と怒鳴ったのはよく覚えているのだが、そこでの記憶はそれまでだ。
そして、俺は心配になりパソコンスクールに向かう。途中あちこちで地割れが起きており、余震が続く中、アスファルトがまるでトランポリンのようにうねうねとうごめいていた。ここは記憶が鮮明なのだが、妙に冷静に、「アスファルトって意外に柔らかいんだな~」などと人ごとのような気分でひたすら地割れするのを見ていた。
学校に到着すると、まだ残っていた生徒や教師たちが歩道に出て、恐怖に震えていた。教師と言えどもみな年齢は俺より年下、また、生徒も若い子が殆どだ。自分のケータイはまだガラケー、情報入手の手段はなく、iモードも通話も繋がらなった。ただ、スマホを持っているパソコンスクールの生徒がおり、彼がなんとかサイトにアクセスして状況を確認すると、当然、こんな物凄い揺れの震源地は茨城県であると思っていたのに、震源地は東北だといい、愕然とした。茨城ですら地獄絵図さながらの凄惨な状況であるのに、果たして東北はどうなっているのかと強く案じたこと覚えている。
そうこうしていると二度目の強い揺れが襲ってきた。周りに建物がない、駐車場で避難しているが死を意識し、死ぬのは悔しいが、死ぬにしても醜態だけは晒すまいと密かに誓った。
眼をこらせ、耳を澄ませ、五感を研ぎ澄ませ、バカバカしいかもしれんが、大好きな漫画、「QP -キューピー-」の我妻涼の名言が頭の中でシンクロしていた。
こんなときこそ、沈着冷静になるべきだと強く意識した。あたふたしてはいけない、心を落ち着かせて、五感を研ぎ澄ませ、最上の行動を取れとわが身に言い聞かせた。その結果、死ぬのであれば是非に及ばず、せめて醜態だけは晒さずに死んでやれと思ったものである。
暫く、駐車場で周りを注視していると、少しずつではあるが余震は収まってきた。スクールの関係者に別れを言い、俺はパチンコ屋に停めてある車に乗り、とりあえず実家に向かう。iモードは繋がらんがラジオは繋がる。情報がかなり混乱しており、日立に津波が襲来したという。あとでそれは日立ではなく、大洗の誤報であったが、内心気が気じゃない。実家に電話してもケータイがうんともすんともせず、ずっと話中だ。もしかして、両親とは今生の別れかもしれんと腹を括った。沿道のブロック塀は大半が崩れ落ち、道路は地割れがしてボコボコ、先の見えない大渋滞でイライラと不安感ばかりが募る。自分だけではなく、皆が家族との再会を待ちわびているのは痛いほどよく分かるのだが、どうしても自分を中心に考えてしまう。同時にそんな了見の狭い、自分にもひどく腹が立つ。
平時なら20分も掛からない場所であるが、その時は3時間以上掛かった、だが、3時間以上掛かったという事実はよく覚えているがどうやって3時間もの間、過ごしていたのかがよく分からない。実家までまだ5キロ以上あるがまったく動かない大渋滞ではらちが明かず、車を空き地に乗り捨て、俺は歩き出した。完全なる無断駐車で空き地の持ち主には言葉もないが非常事態であると都合よく解釈し、ワイパーに赤ペンで俺のケータイ番号とすいませんが一時車を置かしてくださいと書いたメモを挟み、そこから歩き出した。
改めて箇条書きで震災当時の状況を思い出しながら書いてみたのだが、やはり鮮明な部分と思い出したくとも思い出せない部分がある。人間とは強いショックを受けると部分的に記憶が飛ぶのだということをこの時初めて知った。ケータイで動画を撮っていた人も相当いると思うが、恐らく撮っていたこと自体はよく覚えており、撮ったのは間違いなく自分であっても、その撮っている間のことを忘れてしまっているという人も多いと思う。
分かったうえでショッキングな映像を撮りに行くのと、とっさの出来事でショッキングな事態に遭遇するのとではわけが違う。記憶が飛ぶのも致し方なしであり、そういうことは経験したものじゃないと分からないだろう。
こうして震災当時のことを思い出してみると、様々な思いが交錯し、俺自身、今思い返してみても理解不能な行動をしていたりする。極限状態というものは経験して初めてわかるものだ。
被災者はそういうことを思い出してみるもいいかもしれないと思い、今日は自分自身のためにブログを書いた。
亡くなられた尊い命に、心より合掌。
すると、今まで経験したことのない、猛烈な揺れを感じ、店を飛び出す。
荒波の中、船に乗っているような凄まじい揺れ。店を飛び出して、目の前にあるミニストップの駐車場に避難する。電柱からミニストップに繋がる電線がバチンと切れ、切れ口から青白い火花が飛び、ミニストップ内の電気が落ちて真っ暗になった。
あちらこちらで空襲警報さながらのサイレンの音、パトカー、消防、救急車、入り乱れて今まで聞いたことのない凄いサイレンの音だ。同時にカラスも驚いたのだろう、沢山のカラスがカーカーと鳴き喚いていた。鉛色の曇り空が恐怖に拍車をかける。
まずここまでであるが、パチンコを打っていたのはよく覚えており、パチンコ屋の建物が倒壊したらヤバいと思い、向かいのミニストップに向かったことはしっかり覚えているのだが、パチンコ屋からミニストップに向かうまでの数十秒の記憶がスッポリ抜け落ちている。道路を渡ったのは確実なのだが、どうやって渡ったのかまったく思い出せない。気づいたらミニストップの駐車場にいたという感じである。むろん、パチンコ屋ですから台のガラスが割れたとか、積んであったドル箱の玉が倒れて床一面がパチンコ玉で溢れたという記憶があって然るべきであるはずだが、まったくそういう情景の記憶がないのである。逃げるのに必死だったのだと思う。
倒れるものがないミニストップの駐車場には多くの人が溢れていた。爺さんがポールになっているミニストップの看板にしがみついており、上から看板が落ちてきたら危険なので、「離れろ」と怒鳴ったのはよく覚えているのだが、そこでの記憶はそれまでだ。
そして、俺は心配になりパソコンスクールに向かう。途中あちこちで地割れが起きており、余震が続く中、アスファルトがまるでトランポリンのようにうねうねとうごめいていた。ここは記憶が鮮明なのだが、妙に冷静に、「アスファルトって意外に柔らかいんだな~」などと人ごとのような気分でひたすら地割れするのを見ていた。
学校に到着すると、まだ残っていた生徒や教師たちが歩道に出て、恐怖に震えていた。教師と言えどもみな年齢は俺より年下、また、生徒も若い子が殆どだ。自分のケータイはまだガラケー、情報入手の手段はなく、iモードも通話も繋がらなった。ただ、スマホを持っているパソコンスクールの生徒がおり、彼がなんとかサイトにアクセスして状況を確認すると、当然、こんな物凄い揺れの震源地は茨城県であると思っていたのに、震源地は東北だといい、愕然とした。茨城ですら地獄絵図さながらの凄惨な状況であるのに、果たして東北はどうなっているのかと強く案じたこと覚えている。
そうこうしていると二度目の強い揺れが襲ってきた。周りに建物がない、駐車場で避難しているが死を意識し、死ぬのは悔しいが、死ぬにしても醜態だけは晒すまいと密かに誓った。
眼をこらせ、耳を澄ませ、五感を研ぎ澄ませ、バカバカしいかもしれんが、大好きな漫画、「QP -キューピー-」の我妻涼の名言が頭の中でシンクロしていた。
こんなときこそ、沈着冷静になるべきだと強く意識した。あたふたしてはいけない、心を落ち着かせて、五感を研ぎ澄ませ、最上の行動を取れとわが身に言い聞かせた。その結果、死ぬのであれば是非に及ばず、せめて醜態だけは晒さずに死んでやれと思ったものである。
暫く、駐車場で周りを注視していると、少しずつではあるが余震は収まってきた。スクールの関係者に別れを言い、俺はパチンコ屋に停めてある車に乗り、とりあえず実家に向かう。iモードは繋がらんがラジオは繋がる。情報がかなり混乱しており、日立に津波が襲来したという。あとでそれは日立ではなく、大洗の誤報であったが、内心気が気じゃない。実家に電話してもケータイがうんともすんともせず、ずっと話中だ。もしかして、両親とは今生の別れかもしれんと腹を括った。沿道のブロック塀は大半が崩れ落ち、道路は地割れがしてボコボコ、先の見えない大渋滞でイライラと不安感ばかりが募る。自分だけではなく、皆が家族との再会を待ちわびているのは痛いほどよく分かるのだが、どうしても自分を中心に考えてしまう。同時にそんな了見の狭い、自分にもひどく腹が立つ。
平時なら20分も掛からない場所であるが、その時は3時間以上掛かった、だが、3時間以上掛かったという事実はよく覚えているがどうやって3時間もの間、過ごしていたのかがよく分からない。実家までまだ5キロ以上あるがまったく動かない大渋滞ではらちが明かず、車を空き地に乗り捨て、俺は歩き出した。完全なる無断駐車で空き地の持ち主には言葉もないが非常事態であると都合よく解釈し、ワイパーに赤ペンで俺のケータイ番号とすいませんが一時車を置かしてくださいと書いたメモを挟み、そこから歩き出した。
改めて箇条書きで震災当時の状況を思い出しながら書いてみたのだが、やはり鮮明な部分と思い出したくとも思い出せない部分がある。人間とは強いショックを受けると部分的に記憶が飛ぶのだということをこの時初めて知った。ケータイで動画を撮っていた人も相当いると思うが、恐らく撮っていたこと自体はよく覚えており、撮ったのは間違いなく自分であっても、その撮っている間のことを忘れてしまっているという人も多いと思う。
分かったうえでショッキングな映像を撮りに行くのと、とっさの出来事でショッキングな事態に遭遇するのとではわけが違う。記憶が飛ぶのも致し方なしであり、そういうことは経験したものじゃないと分からないだろう。
こうして震災当時のことを思い出してみると、様々な思いが交錯し、俺自身、今思い返してみても理解不能な行動をしていたりする。極限状態というものは経験して初めてわかるものだ。
被災者はそういうことを思い出してみるもいいかもしれないと思い、今日は自分自身のためにブログを書いた。
亡くなられた尊い命に、心より合掌。