強く言いたい
- 2017/11/27
- 11:01
前回ちらっと触れた昨今なにかと俎上に上がりがちなLGBTですが、これもまた小児性愛と同じ解釈でいいのかと釈然としない。
劣性遺伝の問題なのか、はたまた種の保存に関する神の気まぐれなのか、今一つ分からない。LGBTといえども、生殖器に異常、若しくは性転換手術を受けていなければ物理的には子孫を残すことが可能だ。
俺からすると単なる劣性遺伝の問題であるなら無理して気を遣う必要はなく、さっさと絶滅してしまえと思うのであり、また、人類を非LGBTとLGBTとに分けた時、何らかの拍子で我々非LGBTが絶滅してしまったとき、LGBTが新しい人類の歴史を造っていく、そのためにもLGBTが必要なのであればそれはもはや人類に於ける種の保存として意味をなさないため、これも同様にさっさと絶滅してしまえと思うのである。
つまり、LGBTという問題は地上に存在しないという考え方だ。
こんなこと言うと、差別主義、現実に多くの人がLGBTで苦しんでいるのだと、非難をされそうであるが、LGBTを認知して欲しいと願うのであれば交換条件として自分のようなLGBTを人間として認めない人間がいることも認めなくてはそれはLGBTの押し売り、ファシズムでしかない。
社会全体でLGBTを一つの生き方として認知し、LGBTの人達と寄り添っていきましょうと思うのは個人の自由、それは否定しない。否定しない代わりに、俺のようなLGBTを認めないという人がいてもいいだろうということ、本当の意味での健全な社会とはそういうこと。分かります?
ここら辺を分かったうえでLGBTの問題を提起しているのであればいいのだが、メディアや社会福祉系団体の論調はすべて弱者保護の論調なのだ。勘違いするなと強く言いたい。目が見えない、耳が聞こえない、足が不自由で車いす生活だ、このようなケースは確かに社会全体でケアしていく必要がある。
だが、心の問題というのはどこまで行っても心の問題なのだ。
LGBTであってもパートナーを見つけて日々充実した生活を送っている人も多い。
人間生きてていれば大なり小なり皆何かしらの心の悩みというものは存在する。結局感受性の問題なのである。四股に異常はなく、純粋に心の問題で死にたくてたまらないというのであれば遠慮せず死ねばいい、くどいがこういう考え方も認めなくてはならない。別に俺は自分の考えに同調してもらおうなどとは微塵も思っておらん、ただ多様性を認める寛容な社会を目指すのであれば強者の論理、弱者の論理、ともに加味していく必要があるだろうってことだ。特にリベラルの連中には強く言いたい。
劣性遺伝の問題なのか、はたまた種の保存に関する神の気まぐれなのか、今一つ分からない。LGBTといえども、生殖器に異常、若しくは性転換手術を受けていなければ物理的には子孫を残すことが可能だ。
俺からすると単なる劣性遺伝の問題であるなら無理して気を遣う必要はなく、さっさと絶滅してしまえと思うのであり、また、人類を非LGBTとLGBTとに分けた時、何らかの拍子で我々非LGBTが絶滅してしまったとき、LGBTが新しい人類の歴史を造っていく、そのためにもLGBTが必要なのであればそれはもはや人類に於ける種の保存として意味をなさないため、これも同様にさっさと絶滅してしまえと思うのである。
つまり、LGBTという問題は地上に存在しないという考え方だ。
こんなこと言うと、差別主義、現実に多くの人がLGBTで苦しんでいるのだと、非難をされそうであるが、LGBTを認知して欲しいと願うのであれば交換条件として自分のようなLGBTを人間として認めない人間がいることも認めなくてはそれはLGBTの押し売り、ファシズムでしかない。
社会全体でLGBTを一つの生き方として認知し、LGBTの人達と寄り添っていきましょうと思うのは個人の自由、それは否定しない。否定しない代わりに、俺のようなLGBTを認めないという人がいてもいいだろうということ、本当の意味での健全な社会とはそういうこと。分かります?
ここら辺を分かったうえでLGBTの問題を提起しているのであればいいのだが、メディアや社会福祉系団体の論調はすべて弱者保護の論調なのだ。勘違いするなと強く言いたい。目が見えない、耳が聞こえない、足が不自由で車いす生活だ、このようなケースは確かに社会全体でケアしていく必要がある。
だが、心の問題というのはどこまで行っても心の問題なのだ。
LGBTであってもパートナーを見つけて日々充実した生活を送っている人も多い。
人間生きてていれば大なり小なり皆何かしらの心の悩みというものは存在する。結局感受性の問題なのである。四股に異常はなく、純粋に心の問題で死にたくてたまらないというのであれば遠慮せず死ねばいい、くどいがこういう考え方も認めなくてはならない。別に俺は自分の考えに同調してもらおうなどとは微塵も思っておらん、ただ多様性を認める寛容な社会を目指すのであれば強者の論理、弱者の論理、ともに加味していく必要があるだろうってことだ。特にリベラルの連中には強く言いたい。