1年
- 2017/07/26
- 23:30
津久井やまゆり園の事件から本日で丸一年だそうだ。
裁判員の選定はおろか、公判の日程すらまだ決まっていないという。
ちなみに、ここで事件の是々非々を問うつもりはない。また、優性思想についても語らない。
ただひたすら思うのは植松被告は絶対に無罪を主張しなくてはならないということだ。起こした事件ついてはもはや許す許されるの次元を遥かに超越しており、故人や遺族のことを慮れば死をもって償ってもらうしか手段はないのであるが、植松が自分の信念をもとに「決起」したのであれば法律や倫理以前に、たとえそれがいかに歪んだいびつな方向であっても絞首台に吊るされるまで無罪を訴え続けなくてはならない。
今更、自分のやったことは取り返しのつかない大間違いだと罪を認め改悛したとしても、誰がそんなものを認められるのかという話だろう。膝を折り、手のひらを地べたにつけ、涙で地面を濡らしたところで事態は何も好転しない。恨まれつつ、死んでくれた方が遺族の無念も少しは報われる気がする。単なる気まぐれ、気の迷い程度のことで殺されたら堪ったものじゃない。
もちろん、考え方は百人百様、死ぬ前に人としての心を取り戻して欲しいと願いでる人もいるでしょう。自分とは正反対の考え方であるがその考えを否定するつもりもない。またあまりにもセンセーショナル過ぎて答えが出せず、未だ逡巡しているという人もいるだろうと思う。或いは実際に凶行はせずとも植松を神と崇め、心の中で事件を支持する階層の人も世の中には少なからずいることと思う。
こういうセンシティブな議題の場合、簡単に答えは見つからない。植松が人の心を取り戻したところで死刑判決は覆ろうはずはなく、取り調べを行う刑事や検事はおろか、裁く裁判官でさえも結局のところ法律の定義に従って粛々と死刑判決を下すだけであると思う。悲劇を二度と繰り返さないためにも事件に至るまでの経緯をつまびらかにし、真実を語って欲しいというのが公判本来の目的であろうが、仮に本当のことを語ったところで果たしてそれにいったいなんの意味があるのだろうかと訝しく思う、俺がいるのもまた事実なのである。
見届け人である裁判員は良くも悪くも刑事事件とは無関係な市井の人たちだ。死刑判決が既定路線として決まっているのにも関わらず長きに渡り苦痛や苦悩を与えることが法治国家の国民としての正しき使命なのかどうかも正直分からない。
もし今回のブログを読んで不快に思われた方がいたら先に謝っておきます。自分自身、障害者に対してなんら他意がないことは事実です。
ただ率直な思いを忌憚なく述べさせていただきました。本当にすいませんでした。
裁判員の選定はおろか、公判の日程すらまだ決まっていないという。
ちなみに、ここで事件の是々非々を問うつもりはない。また、優性思想についても語らない。
ただひたすら思うのは植松被告は絶対に無罪を主張しなくてはならないということだ。起こした事件ついてはもはや許す許されるの次元を遥かに超越しており、故人や遺族のことを慮れば死をもって償ってもらうしか手段はないのであるが、植松が自分の信念をもとに「決起」したのであれば法律や倫理以前に、たとえそれがいかに歪んだいびつな方向であっても絞首台に吊るされるまで無罪を訴え続けなくてはならない。
今更、自分のやったことは取り返しのつかない大間違いだと罪を認め改悛したとしても、誰がそんなものを認められるのかという話だろう。膝を折り、手のひらを地べたにつけ、涙で地面を濡らしたところで事態は何も好転しない。恨まれつつ、死んでくれた方が遺族の無念も少しは報われる気がする。単なる気まぐれ、気の迷い程度のことで殺されたら堪ったものじゃない。
もちろん、考え方は百人百様、死ぬ前に人としての心を取り戻して欲しいと願いでる人もいるでしょう。自分とは正反対の考え方であるがその考えを否定するつもりもない。またあまりにもセンセーショナル過ぎて答えが出せず、未だ逡巡しているという人もいるだろうと思う。或いは実際に凶行はせずとも植松を神と崇め、心の中で事件を支持する階層の人も世の中には少なからずいることと思う。
こういうセンシティブな議題の場合、簡単に答えは見つからない。植松が人の心を取り戻したところで死刑判決は覆ろうはずはなく、取り調べを行う刑事や検事はおろか、裁く裁判官でさえも結局のところ法律の定義に従って粛々と死刑判決を下すだけであると思う。悲劇を二度と繰り返さないためにも事件に至るまでの経緯をつまびらかにし、真実を語って欲しいというのが公判本来の目的であろうが、仮に本当のことを語ったところで果たしてそれにいったいなんの意味があるのだろうかと訝しく思う、俺がいるのもまた事実なのである。
見届け人である裁判員は良くも悪くも刑事事件とは無関係な市井の人たちだ。死刑判決が既定路線として決まっているのにも関わらず長きに渡り苦痛や苦悩を与えることが法治国家の国民としての正しき使命なのかどうかも正直分からない。
もし今回のブログを読んで不快に思われた方がいたら先に謝っておきます。自分自身、障害者に対してなんら他意がないことは事実です。
ただ率直な思いを忌憚なく述べさせていただきました。本当にすいませんでした。