お彼岸の日に考える宗教観
- 2017/03/18
- 19:46
お彼岸ですね。
いうまでもなくお彼岸は春分の日、秋分の日という天文学的に昼と夜の長さが同じになる日として重要であるが(厳密には昼の方が長い)、日本では故人を弔う宗教的な意味の方が大きいと思われる。
人間が生きる上で宗教は必要か不必要か、それは人によりけりで、必要な人にとっては水や空気と同じく、いやそれ以上になくてはならないものであろうし、不必要な人にとっては昨日の新聞紙よりももっといらない。
自分はというと、すべての宗教を基本的に否定している。基本的にというのはお彼岸やお盆、故人の命日には墓参をして手を合わせ、仏壇に線香をあげる。先日の3.11の14時46分、自分も北の方角を向き、手を合わせ1分間の黙とうをした。ご都合主義かもしれないがこの一連の行為は自分自身、宗教と切り離して考えているのであるが人に言わせるとそれもまた立派な宗教的な行為であるそうだ。
そうなのかな~、まあそうなんでしょうね。
とは言えは、少なくともお釈迦様、キリスト、マホメット、すべての既存宗教を否定しているのは事実だ。
ただ、先日宗教について面白いという話が合ったので紹介しておく。仏壇に手を合わせようとも、お葬式の日には黒い礼服を着ようとも、特定の宗教や宗派に帰依しない自分のような無神論者の存在、それ自体も、「信仰しない」という教えを頑なに守っている時点で実は無神論教という一つの宗教だというのだ。なるほどねと思わず唸ってしまった。
チャペルで結婚式を挙げ、子供が生まれたら神社にお宮参り、そして死んだら檀家になっている寺の坊主が読経をする、こんなちぐはぐな宗教観って日本人特有の価値観だと思っていたのだがどうやら世界的にこういう潮流が広がっているらしい。
独連邦議会の野党「左翼党」幹部のグレゴール・ギジ氏はドイツの国営放送ZDFで「自分は神の存在を信じていないが、神なき社会を恐れている。キリスト教会が主張するような価値観で構築された世界が全く存在しない世界に恐怖を感じるのだ。資本主義も社会主義もその恐怖心を取り除くことができるものを有していないからだ」と語った。
日本の場合、真言宗、日蓮宗、それぞれの檀家の子たちがチャペルで神父と牧師との違いも分からずに永遠の愛を誓う、割りと当たり前の風景であり、当たり前すぎて違和感を覚えないが宗教の存在が厳格な諸外国ではこういったことってあり得ない。
理由は宗教イコール道徳であるからだ。
最近なにかと話題の教育勅語、あれって軍国主義の権化の如く語られているが実は親兄弟を大切にし、勤労の心を持ち、国を愛し、国際社会に貢献しなさいという教えを明文化しただけである。そこに戦争が絡んでしまい、おかしな方向に曲解されてしまったという嫌いはあるにせよ、本当に当たり前の道徳観なんですよ。
日本のいいところってこういう道徳を語るとき、宗教を切り離して考えるじゃない、だからこそ、仏壇のある家庭の子がチャペルで結婚式を挙げても何も問題は起きないのであるがキリスト教にしてもイスラム教にしても道徳を教えるのって宗教の一端として道徳を教える。日本の無神論者と海外の無神論者とが決定的に違うのは日本の無神論者が元々道徳を宗教とは別の考えとして教えられているため社会に順応しているのに対し、海外の無神論者イコール道徳心のない奴という認識なのです。グレゴール・ギジ氏が危惧するのはまさにここだと思うのだ。
自分のことはさておき、別に日本人が無神論者だといっても驚きもしないし、道徳観のない奴だとは思われないでしょ。しかし、良くも悪くもキリスト教やイスラム教の場合、道徳観を宗教観に依存し過ぎてしまっているため、宗教から離れていけばいくほど社会は混沌とした無秩序な社会になってしまうのではないかと恐れられているのだ。
一方、宗教に限界を感じているのも事実だろう。
旧約聖書の有名な一節、「汝、殺すなかれ」、しかし世界で一番人を殺しているのはキリスト教国家であるアメリカであるという矛盾、この矛盾に説明がつかず、疑問を抱く若者が増えても無理からぬ話である。日本のように宗教と道徳を切り離して考えるのであればキリスト教に疑問を抱き、無神論者になったところで特に問題はないがそもそも宗教の中に道徳を見出してきた民族が道徳と宗教を切り離して考えるというのは恐らく無理だと思う。
科学が益々発達し、今後、もしかすると人は宗教に依存しなくとも生きていけるということに気付いてしまうかもしれない。神なき世界が現実になったとき、いったいどうなるのか、怖くもあり、楽しみでもあり、そんなことを考えたお彼岸のとある一日。
いうまでもなくお彼岸は春分の日、秋分の日という天文学的に昼と夜の長さが同じになる日として重要であるが(厳密には昼の方が長い)、日本では故人を弔う宗教的な意味の方が大きいと思われる。
人間が生きる上で宗教は必要か不必要か、それは人によりけりで、必要な人にとっては水や空気と同じく、いやそれ以上になくてはならないものであろうし、不必要な人にとっては昨日の新聞紙よりももっといらない。
自分はというと、すべての宗教を基本的に否定している。基本的にというのはお彼岸やお盆、故人の命日には墓参をして手を合わせ、仏壇に線香をあげる。先日の3.11の14時46分、自分も北の方角を向き、手を合わせ1分間の黙とうをした。ご都合主義かもしれないがこの一連の行為は自分自身、宗教と切り離して考えているのであるが人に言わせるとそれもまた立派な宗教的な行為であるそうだ。
そうなのかな~、まあそうなんでしょうね。
とは言えは、少なくともお釈迦様、キリスト、マホメット、すべての既存宗教を否定しているのは事実だ。
ただ、先日宗教について面白いという話が合ったので紹介しておく。仏壇に手を合わせようとも、お葬式の日には黒い礼服を着ようとも、特定の宗教や宗派に帰依しない自分のような無神論者の存在、それ自体も、「信仰しない」という教えを頑なに守っている時点で実は無神論教という一つの宗教だというのだ。なるほどねと思わず唸ってしまった。
チャペルで結婚式を挙げ、子供が生まれたら神社にお宮参り、そして死んだら檀家になっている寺の坊主が読経をする、こんなちぐはぐな宗教観って日本人特有の価値観だと思っていたのだがどうやら世界的にこういう潮流が広がっているらしい。
独連邦議会の野党「左翼党」幹部のグレゴール・ギジ氏はドイツの国営放送ZDFで「自分は神の存在を信じていないが、神なき社会を恐れている。キリスト教会が主張するような価値観で構築された世界が全く存在しない世界に恐怖を感じるのだ。資本主義も社会主義もその恐怖心を取り除くことができるものを有していないからだ」と語った。
日本の場合、真言宗、日蓮宗、それぞれの檀家の子たちがチャペルで神父と牧師との違いも分からずに永遠の愛を誓う、割りと当たり前の風景であり、当たり前すぎて違和感を覚えないが宗教の存在が厳格な諸外国ではこういったことってあり得ない。
理由は宗教イコール道徳であるからだ。
最近なにかと話題の教育勅語、あれって軍国主義の権化の如く語られているが実は親兄弟を大切にし、勤労の心を持ち、国を愛し、国際社会に貢献しなさいという教えを明文化しただけである。そこに戦争が絡んでしまい、おかしな方向に曲解されてしまったという嫌いはあるにせよ、本当に当たり前の道徳観なんですよ。
日本のいいところってこういう道徳を語るとき、宗教を切り離して考えるじゃない、だからこそ、仏壇のある家庭の子がチャペルで結婚式を挙げても何も問題は起きないのであるがキリスト教にしてもイスラム教にしても道徳を教えるのって宗教の一端として道徳を教える。日本の無神論者と海外の無神論者とが決定的に違うのは日本の無神論者が元々道徳を宗教とは別の考えとして教えられているため社会に順応しているのに対し、海外の無神論者イコール道徳心のない奴という認識なのです。グレゴール・ギジ氏が危惧するのはまさにここだと思うのだ。
自分のことはさておき、別に日本人が無神論者だといっても驚きもしないし、道徳観のない奴だとは思われないでしょ。しかし、良くも悪くもキリスト教やイスラム教の場合、道徳観を宗教観に依存し過ぎてしまっているため、宗教から離れていけばいくほど社会は混沌とした無秩序な社会になってしまうのではないかと恐れられているのだ。
一方、宗教に限界を感じているのも事実だろう。
旧約聖書の有名な一節、「汝、殺すなかれ」、しかし世界で一番人を殺しているのはキリスト教国家であるアメリカであるという矛盾、この矛盾に説明がつかず、疑問を抱く若者が増えても無理からぬ話である。日本のように宗教と道徳を切り離して考えるのであればキリスト教に疑問を抱き、無神論者になったところで特に問題はないがそもそも宗教の中に道徳を見出してきた民族が道徳と宗教を切り離して考えるというのは恐らく無理だと思う。
科学が益々発達し、今後、もしかすると人は宗教に依存しなくとも生きていけるということに気付いてしまうかもしれない。神なき世界が現実になったとき、いったいどうなるのか、怖くもあり、楽しみでもあり、そんなことを考えたお彼岸のとある一日。