鹿肉を食して考える
- 2017/01/29
- 10:01
先日生まれて初めて鹿肉を頂きました。
三国志の英雄曹操も好んで食べたという鹿肉、前々から食べたいと思っていたのだが、たまたま親父の狩猟仲間が北海道で獲ってきたとかで、おすそわけを頂き、今回食肉の機会に恵まれたのである。
結論から言うと、うまくない。
貰った部位が悪かったのか、或いはいわゆるバンビ型の鹿とは違う北海道の固有種であるエゾシカであったためかは分らぬが、美味しくない。
いつも言うように人間の都合で殺生をしたものですから責任を持って最後まで頂きましたが正直俺はもういいや。初めて鹿肉を料理するおふくろも調理の仕方が分らず、とりあえずトマトと赤ワインで煮込んでみたのだが料理の仕方というより、美味しく感じられなかったのは恐らく鹿肉自体の問題だと思う。
鹿肉を食べたことのある人なら分かると思うが鹿肉は赤身の部分と脂身の部分が完璧に分かれており、赤身の部分はひたすらパサパサした赤身、脂身の部分は単なるラードのかたまりと、サシの入った霜降り肉とは違い、極端なんですよ。肉の旨さって、俺が思うには脂身と赤身のバランスだと思うのね。もちろん、好みの問題ですから一概には言えんけど、適度に脂の乗った松坂牛が最高級牛肉として支持されることを見てもこの考えはあながち間違ってはいないと思う。
だからと言って、鹿自体にケチをつけているワケではない。過酷な自然環境の中で生きるためには脂肪と赤身がくっきり分かれている方が何かと都合がいいのであろう。特に北海道という特殊な場所に於いては脂肪分が体温を調節する意味でも大きな意味を為し、体を保護するために脂肪が分離して赤身肉を包んでいるものと思われる。また、赤身に脂肪が入ってしまうと動きが緩慢になり、天敵であるヒグマに襲われる危険もあるため、そういった体の構造になっていると思慮する。
根本的に肉が嫌いな人は別にして、一般的に肉を食べた時、うまいと感じるのは適度に入った脂身の部分だと思う。
それでだ、鹿肉を食べて思ったのは、霜降りのA5ランクの牛肉を食べると美味いと感じるじゃん、これって、人間に元々備わっていた感覚なのか、或いは後発的に培った感覚なのかってこと。
日本人が牛肉を食べるようになったのは明治以降、時間にすると百年ちょい、西洋でも500年ぐらいだという。恐らく、500年前の牛肉って今ほど脂身がなく、むしろ筋肉質であったと思う。品種改良や餌の改良を重ねて、今の食肉牛が出来上がった。
じゃあじゃあ、500年前の人に今の霜降り肉を食べてもらうとどういう反応をするのかって話よ。美味いと思うのか、なんだこの脂ベトベトの得体のしれない肉はと思うのか。分かりません。もしかすると美味すぎて感動するかもしれないし、気持ち悪くて吐き出すかもしれない。
たまたま、今回は肉の話であるが、結構この技術革新の歴史については考えさせられる。
例えば自動車、自動車の歴史って、丸っこいデザインと角ばったデザインとの繰り返しで、丸が流行った後には角が来るというのが通例である。それでまあ、丸型のデザインに目が慣れているときに新型の角張ったデザインの車を見ると、当初凄い違和感を感じる。新型のはずなのに格好悪いとさえ、感じる。しかし、時間が経つにつれ、角型が格好いいと思うようになり、旧型の丸型を見ては古臭いと感じるようになる(むろん例外はあり、新型を見ていきなり格好いいと思うこともあれば、新型がモデルチェンジをするまで前の方がよかったと思うこともある)。
これってメーカーというか自動車業界全体が消費者の購買意欲を高めるためあえて仕向けているんだけど、人間の感覚っていかにいい加減なもんだという証左でもあるし、裏を返せば異なったものでも容易く受け入れる順応性の高さを示す指標でもある。
世の中の流れってさ、結局、政府や企業によってそうなるように仕向けられているというのが本質じゃない。消費者が求めているからスマホが開発されたわけじゃなく、企業が新たな利益を得るために開発されたというのが実態でしょ。そのスマートフォンだって、実際そこまで必要かといえば10年前には一般化するなんて想像すらしていなかった。でも、ガラケーの販売をキャリア各社が停止や縮小し、望むと望まざるを問わず、今やスマートフォンなしの生活はあり得ないという時代になってしまった。
では、10年前、我々はそこまで不便な生活をしていかといえば別にそこまで不便な生活を強いられていたわけじゃないよね。むしろ、その当時は「10年前の人たちってケータイすらなくてポケベルを使ってたんだよなぁ」と鼻で笑っていた。ポケベル時代の人たちはポケベル時代の人たちで、ベルがあるから会社や友達との連絡も楽だよねと一歩も二歩も先行く感覚で合ったのは言うまでもない。
たまたま、肉、クルマ、スマホのことを話したけど、これは資本主義、社会主義、共産主義を問わず人間の営みすべてです。
これからも人間が存在し続ける限り、このストリームは変わらず、人間はこの繰り返しをしながら時代を生き抜く。
それが成長なのか退廃なのかは分かりませんけど。
三国志の英雄曹操も好んで食べたという鹿肉、前々から食べたいと思っていたのだが、たまたま親父の狩猟仲間が北海道で獲ってきたとかで、おすそわけを頂き、今回食肉の機会に恵まれたのである。
結論から言うと、うまくない。
貰った部位が悪かったのか、或いはいわゆるバンビ型の鹿とは違う北海道の固有種であるエゾシカであったためかは分らぬが、美味しくない。
いつも言うように人間の都合で殺生をしたものですから責任を持って最後まで頂きましたが正直俺はもういいや。初めて鹿肉を料理するおふくろも調理の仕方が分らず、とりあえずトマトと赤ワインで煮込んでみたのだが料理の仕方というより、美味しく感じられなかったのは恐らく鹿肉自体の問題だと思う。
鹿肉を食べたことのある人なら分かると思うが鹿肉は赤身の部分と脂身の部分が完璧に分かれており、赤身の部分はひたすらパサパサした赤身、脂身の部分は単なるラードのかたまりと、サシの入った霜降り肉とは違い、極端なんですよ。肉の旨さって、俺が思うには脂身と赤身のバランスだと思うのね。もちろん、好みの問題ですから一概には言えんけど、適度に脂の乗った松坂牛が最高級牛肉として支持されることを見てもこの考えはあながち間違ってはいないと思う。
だからと言って、鹿自体にケチをつけているワケではない。過酷な自然環境の中で生きるためには脂肪と赤身がくっきり分かれている方が何かと都合がいいのであろう。特に北海道という特殊な場所に於いては脂肪分が体温を調節する意味でも大きな意味を為し、体を保護するために脂肪が分離して赤身肉を包んでいるものと思われる。また、赤身に脂肪が入ってしまうと動きが緩慢になり、天敵であるヒグマに襲われる危険もあるため、そういった体の構造になっていると思慮する。
根本的に肉が嫌いな人は別にして、一般的に肉を食べた時、うまいと感じるのは適度に入った脂身の部分だと思う。
それでだ、鹿肉を食べて思ったのは、霜降りのA5ランクの牛肉を食べると美味いと感じるじゃん、これって、人間に元々備わっていた感覚なのか、或いは後発的に培った感覚なのかってこと。
日本人が牛肉を食べるようになったのは明治以降、時間にすると百年ちょい、西洋でも500年ぐらいだという。恐らく、500年前の牛肉って今ほど脂身がなく、むしろ筋肉質であったと思う。品種改良や餌の改良を重ねて、今の食肉牛が出来上がった。
じゃあじゃあ、500年前の人に今の霜降り肉を食べてもらうとどういう反応をするのかって話よ。美味いと思うのか、なんだこの脂ベトベトの得体のしれない肉はと思うのか。分かりません。もしかすると美味すぎて感動するかもしれないし、気持ち悪くて吐き出すかもしれない。
たまたま、今回は肉の話であるが、結構この技術革新の歴史については考えさせられる。
例えば自動車、自動車の歴史って、丸っこいデザインと角ばったデザインとの繰り返しで、丸が流行った後には角が来るというのが通例である。それでまあ、丸型のデザインに目が慣れているときに新型の角張ったデザインの車を見ると、当初凄い違和感を感じる。新型のはずなのに格好悪いとさえ、感じる。しかし、時間が経つにつれ、角型が格好いいと思うようになり、旧型の丸型を見ては古臭いと感じるようになる(むろん例外はあり、新型を見ていきなり格好いいと思うこともあれば、新型がモデルチェンジをするまで前の方がよかったと思うこともある)。
これってメーカーというか自動車業界全体が消費者の購買意欲を高めるためあえて仕向けているんだけど、人間の感覚っていかにいい加減なもんだという証左でもあるし、裏を返せば異なったものでも容易く受け入れる順応性の高さを示す指標でもある。
世の中の流れってさ、結局、政府や企業によってそうなるように仕向けられているというのが本質じゃない。消費者が求めているからスマホが開発されたわけじゃなく、企業が新たな利益を得るために開発されたというのが実態でしょ。そのスマートフォンだって、実際そこまで必要かといえば10年前には一般化するなんて想像すらしていなかった。でも、ガラケーの販売をキャリア各社が停止や縮小し、望むと望まざるを問わず、今やスマートフォンなしの生活はあり得ないという時代になってしまった。
では、10年前、我々はそこまで不便な生活をしていかといえば別にそこまで不便な生活を強いられていたわけじゃないよね。むしろ、その当時は「10年前の人たちってケータイすらなくてポケベルを使ってたんだよなぁ」と鼻で笑っていた。ポケベル時代の人たちはポケベル時代の人たちで、ベルがあるから会社や友達との連絡も楽だよねと一歩も二歩も先行く感覚で合ったのは言うまでもない。
たまたま、肉、クルマ、スマホのことを話したけど、これは資本主義、社会主義、共産主義を問わず人間の営みすべてです。
これからも人間が存在し続ける限り、このストリームは変わらず、人間はこの繰り返しをしながら時代を生き抜く。
それが成長なのか退廃なのかは分かりませんけど。