ちょっとまじめに
- 2016/12/21
- 11:35
『佐賀県西部の県立高校の男子生徒が、ツイッターにアナグマの死骸の写真を投稿し「バットでぶち殺してやった笑」と書き込んだところ、高校に苦情のメールや電話が300件近く殺到したことが19日分かった。高校によると、生徒は、自宅の畑が荒らされ、自治体に駆除を申請していた。
生徒は17日、家の玄関にいた動物をバットで殺したなどと投稿。インターネット上で「ひどい」「逮捕しろ」といった批判を受け、同日中に自ら投稿を削除した。学校名が分かる記述があり、高校に苦情が相次いだ。
高校は19日、朝から全校集会を開き、会員制交流サイト(SNS)の使い方を注意した。学校長によると、生徒が写真を撮ったのは駆除したことを親に報告するためだったといい、「周囲を不快にさせる意図はなかった」と理解を求めた。』
(産経新聞)
結局これって、バットでフルスイングしたという発表の仕方が問題なだけで、イノシシやハクビシン、イタチ、アライグマなどの害獣駆除は収入にも直結するため、農村部では割りと普通に行われている。
スペースワールドの時にも書いたが、動物を人間が殺めていいのは食べるときというのが大原則であるが、農作物を荒らす、病原菌を撒き散らす(病原菌ではないが、スズメバチの巣や海水浴場に現れたサメなどの駆除もこれに含まれる)といった場合であれば殺生もやむなしである。
この子が言うように本当に畑を荒らされて困っているのであれば殺生も致し方ないでしょう。そこを責めるつもりはさらさらない。ただ、命を奪うことに対して畏敬の念を持つ必要があり、勝手に殺しておいて矛盾した話であるが亡骸は正しく弔ってやる必要がある。WEB上にふざけた言動を上げる必要はまったくない。余計な命をこれ以上奪うことのないよう、畑の周りには防護柵を張るなどして、害獣に入られないようにし、それでもやっぱり突破されてしまうときだけ不承不承であるが殺害をするというふうに考えを改めないといけないだろう。
これはギャンブル依存症とも似た側面があるのだが、本来駆除するために殺生していたものがいつしか目的と手段が逆転し、殺生するために獲物を探すということになりかねない。ギャンブルも金を得る手段のためだったはずなのに重度の依存症になると、いつしかギャンブルをするために金を得たいと考えるようになる、似ているとは言えないだろうか。高校生のうちから人間より弱い立場の動物を殺生することに快楽を見い出すことは末恐ろしいことである。
自分はいつも言うようにまったくの無信仰であるが、それでも仏教のいただきますの教えは素晴らしいものだと、得心している。
知っている人も多いであろうが、いただきますは作ってくれた人への感謝だけでなく、尊い命を殺め、命をいただくことへの感謝でもある。その感謝の気持ちは絶対に忘れてはいけないだろう。彼にはこういう心の教育が必要なんじゃないでしょうか。
生徒は17日、家の玄関にいた動物をバットで殺したなどと投稿。インターネット上で「ひどい」「逮捕しろ」といった批判を受け、同日中に自ら投稿を削除した。学校名が分かる記述があり、高校に苦情が相次いだ。
高校は19日、朝から全校集会を開き、会員制交流サイト(SNS)の使い方を注意した。学校長によると、生徒が写真を撮ったのは駆除したことを親に報告するためだったといい、「周囲を不快にさせる意図はなかった」と理解を求めた。』
(産経新聞)
結局これって、バットでフルスイングしたという発表の仕方が問題なだけで、イノシシやハクビシン、イタチ、アライグマなどの害獣駆除は収入にも直結するため、農村部では割りと普通に行われている。
スペースワールドの時にも書いたが、動物を人間が殺めていいのは食べるときというのが大原則であるが、農作物を荒らす、病原菌を撒き散らす(病原菌ではないが、スズメバチの巣や海水浴場に現れたサメなどの駆除もこれに含まれる)といった場合であれば殺生もやむなしである。
この子が言うように本当に畑を荒らされて困っているのであれば殺生も致し方ないでしょう。そこを責めるつもりはさらさらない。ただ、命を奪うことに対して畏敬の念を持つ必要があり、勝手に殺しておいて矛盾した話であるが亡骸は正しく弔ってやる必要がある。WEB上にふざけた言動を上げる必要はまったくない。余計な命をこれ以上奪うことのないよう、畑の周りには防護柵を張るなどして、害獣に入られないようにし、それでもやっぱり突破されてしまうときだけ不承不承であるが殺害をするというふうに考えを改めないといけないだろう。
これはギャンブル依存症とも似た側面があるのだが、本来駆除するために殺生していたものがいつしか目的と手段が逆転し、殺生するために獲物を探すということになりかねない。ギャンブルも金を得る手段のためだったはずなのに重度の依存症になると、いつしかギャンブルをするために金を得たいと考えるようになる、似ているとは言えないだろうか。高校生のうちから人間より弱い立場の動物を殺生することに快楽を見い出すことは末恐ろしいことである。
自分はいつも言うようにまったくの無信仰であるが、それでも仏教のいただきますの教えは素晴らしいものだと、得心している。
知っている人も多いであろうが、いただきますは作ってくれた人への感謝だけでなく、尊い命を殺め、命をいただくことへの感謝でもある。その感謝の気持ちは絶対に忘れてはいけないだろう。彼にはこういう心の教育が必要なんじゃないでしょうか。