親不孝の基準
- 2016/09/01
- 13:39
昨日立て籠もり自殺したシャブ中のバカもそう、高畑さんちのバカ息子もそう、とにかくまあ親不孝じゃない。
親不孝に関して自分なりの基準があるので、本日はそのことについて述べてみたい。
ただ、勘違いしてもらいたくないのは法律による罰則とは別の次元の話であるということをご理解頂きたい。
さて、親不孝だが、親不孝にも色々種類はあると思う。犯罪を犯すだけじゃなく、金銭トラブルや職業や進学の問題、或いは駈け落ちや不倫など恋愛もそうだ、ちょっと強引ではあるけれど全てひっくるめて考えると、俺が考える親不孝の基準とは先祖の位牌が安置している仏壇に堂々と手を合わせられるか否か、この一点に尽きる。
つまり、散々親に迷惑を掛けたとしても、帰る場所があるというのは何のかんのいっても幸せなことである。自宅の敷居を跨くことを許されず、親の位牌に線香もあげられないのが本当の親不孝。これが俺の基準のすべて。
じゃああなた方は散々警察の厄介になっているお前はどうなんだと仰られるでしょうが、俺は何の自慢にもならないが自分んちの仏壇に手を合わせることにとりあえず今のところは何の制約もない。この間のお盆も帰宅した。もちろん、親に迷惑を掛けたのは否定しない。だが、一つの基準として敷居を跨げないほどの悪事を働いたわけではない(と思う)。だからこそ、盆暮れには帰宅し、仏壇に手を合わせて線香を上げるのだ。
世の中にはこういう当たり前のことを出来ない人間が数多い、同時に、自分がだらしないばっかりに親の位牌もろくに安置せず、ほったらかしのままのバカもまた多い。無縁仏に安置されている人達を見ると見ているこちらが情けない気持ちになる。
常々、宗教を否定しているお前が何を偉そうにと言われるかもしれないが仏壇に手を合わせる合わせないと、宗教とはまったく別問題であり、心の問題である。
宗教を否定しておきながら宗教的な話になってしまうのは心苦しいが、体は朽ち果てても魂というものは永遠に存在するものだと思っている。ちょっと語弊があるな、永遠ではないな、その意思を紡ぐものがいればという話だ。
例えばある研究者が研究の道半ばで病に倒れ、不帰の人になったとする。しかし、思いを繋ぐものがいれば後の世代の人間が成就する、或いはその世代も成就出来なければ、また次の世代へと思いは続くのだ。目には見えないが次の世代に繋いでいくバトンのような存在が魂だと思う。体は朽ちてゼロになっても思いは受ける人がいる限り連綿と続くのだ。
では、研究などと大仰なことではなく、ごくごく平凡な家庭のご先祖様が自分の子孫達に伝えたいことは何か?
これだという明確な答えはないが、大抵の場合、集約すると家族仲良く皆楽しく暮らせだと思う、それこそが繋ぐべき魂だ。
だけど、線香の一本もあげられない親不孝のバカがいるとその思いはそこでストップしてしまう。これって最大の親不孝だと思うんだわ。
高畑さんちのバカ息子が将来家に帰るかどうかは知らない。それはその家庭の基準であり、親の縁を切って他人となるのか、親として更生を誓い厳しく見守るのか、いずれにせよ外野がとやかく言うべきことではない。
ただ、ハッキリ言えるのは親の思いをどう受け止めるかだ。親を亡くした人であればもし母が生きていたらどう思うか、父はどう思うかだ。それすらも考えられないバカは救いようがない。
こんなことを書くと世の中には複雑な家庭があり、親に捨てられて施設で育った子もいるからことはそう簡単ではないんだよとたしなめられるかもしれませんけどね、だったら尚のこと、『親不孝な親』のことを反面教師にして、自分は強く生きなければならないじゃない。不幸な歴史を自分の子供や孫に繋ぐのかといいたい。
もっともこういうことを考えるようになったのはホント最近のこと。若い頃はそんなことを思いもしなかったけどね。叔父叔母が亡くなるような年になると考え方は結構変わってくるもんだよ。
親不孝に関して自分なりの基準があるので、本日はそのことについて述べてみたい。
ただ、勘違いしてもらいたくないのは法律による罰則とは別の次元の話であるということをご理解頂きたい。
さて、親不孝だが、親不孝にも色々種類はあると思う。犯罪を犯すだけじゃなく、金銭トラブルや職業や進学の問題、或いは駈け落ちや不倫など恋愛もそうだ、ちょっと強引ではあるけれど全てひっくるめて考えると、俺が考える親不孝の基準とは先祖の位牌が安置している仏壇に堂々と手を合わせられるか否か、この一点に尽きる。
つまり、散々親に迷惑を掛けたとしても、帰る場所があるというのは何のかんのいっても幸せなことである。自宅の敷居を跨くことを許されず、親の位牌に線香もあげられないのが本当の親不孝。これが俺の基準のすべて。
じゃああなた方は散々警察の厄介になっているお前はどうなんだと仰られるでしょうが、俺は何の自慢にもならないが自分んちの仏壇に手を合わせることにとりあえず今のところは何の制約もない。この間のお盆も帰宅した。もちろん、親に迷惑を掛けたのは否定しない。だが、一つの基準として敷居を跨げないほどの悪事を働いたわけではない(と思う)。だからこそ、盆暮れには帰宅し、仏壇に手を合わせて線香を上げるのだ。
世の中にはこういう当たり前のことを出来ない人間が数多い、同時に、自分がだらしないばっかりに親の位牌もろくに安置せず、ほったらかしのままのバカもまた多い。無縁仏に安置されている人達を見ると見ているこちらが情けない気持ちになる。
常々、宗教を否定しているお前が何を偉そうにと言われるかもしれないが仏壇に手を合わせる合わせないと、宗教とはまったく別問題であり、心の問題である。
宗教を否定しておきながら宗教的な話になってしまうのは心苦しいが、体は朽ち果てても魂というものは永遠に存在するものだと思っている。ちょっと語弊があるな、永遠ではないな、その意思を紡ぐものがいればという話だ。
例えばある研究者が研究の道半ばで病に倒れ、不帰の人になったとする。しかし、思いを繋ぐものがいれば後の世代の人間が成就する、或いはその世代も成就出来なければ、また次の世代へと思いは続くのだ。目には見えないが次の世代に繋いでいくバトンのような存在が魂だと思う。体は朽ちてゼロになっても思いは受ける人がいる限り連綿と続くのだ。
では、研究などと大仰なことではなく、ごくごく平凡な家庭のご先祖様が自分の子孫達に伝えたいことは何か?
これだという明確な答えはないが、大抵の場合、集約すると家族仲良く皆楽しく暮らせだと思う、それこそが繋ぐべき魂だ。
だけど、線香の一本もあげられない親不孝のバカがいるとその思いはそこでストップしてしまう。これって最大の親不孝だと思うんだわ。
高畑さんちのバカ息子が将来家に帰るかどうかは知らない。それはその家庭の基準であり、親の縁を切って他人となるのか、親として更生を誓い厳しく見守るのか、いずれにせよ外野がとやかく言うべきことではない。
ただ、ハッキリ言えるのは親の思いをどう受け止めるかだ。親を亡くした人であればもし母が生きていたらどう思うか、父はどう思うかだ。それすらも考えられないバカは救いようがない。
こんなことを書くと世の中には複雑な家庭があり、親に捨てられて施設で育った子もいるからことはそう簡単ではないんだよとたしなめられるかもしれませんけどね、だったら尚のこと、『親不孝な親』のことを反面教師にして、自分は強く生きなければならないじゃない。不幸な歴史を自分の子供や孫に繋ぐのかといいたい。
もっともこういうことを考えるようになったのはホント最近のこと。若い頃はそんなことを思いもしなかったけどね。叔父叔母が亡くなるような年になると考え方は結構変わってくるもんだよ。