免罪符とお布施
- 2016/08/10
- 15:57
『檀家(だんか)が減り、経営基盤が揺らぐ「寺院消滅」の時代に、「変革」を起こそうとする住職がいます。明朗会計とサービス重視、ネットを使って信徒獲得をめざしています。でも、仏教界から強い反発があるようです。(以下略)』
(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/ASJ846WYSJ84ULFA020.html
免罪符って言葉は知っているでしょう?
意味は罪や責めをまぬがれるために遣う言葉や物のことね。大抵の場合、実際には償いにならない言い訳的なことに遣うことが多い。
「機動隊の誰に殴られたか立証できないし、向こうには公務執行妨害罪という免罪符がある。(ひぐらしのなく頃に、綿流し編より引用)」、などと遣うが、しかし、語源を忘れている人は殊のほか多い。
免罪符の語源は16世紀まで遡る。1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のため、教皇レオ10世が民衆に寄付を募ったのであるが、ただ金をくれといってもそう易々と寄進してはくれやしない、教皇レオ10世は非常に困った、じゃあどうするか、よしだったら金を支払ってくれた人には今までの罪を全て免償する特別札を発行しよう、それが即ち免罪符であるというのが語源の成り立ち、正しくは贖宥状(しょくゆうじょう)という。当然これには金を払えば人を殺そうが、泥棒をしようが許されてしまうのかという大きな問題が孕んでいる。この免罪符にけしからんと真っ向から意を唱え、宗教改革を断行したのが有名なマルティン・ルター、世界史で習ったよな?習ったんだよ!
もうね、洋の東西を問わず、昔から宗教と金という問題は切っても切れないシームレスな関係であったりする。
今回の坊さんの明朗会計もそう、坊さんだって喰っていかなくてはならないから常識的な範囲でのお布施はいいと思う、だけど、1回あたり数十万、数百万円の費用ってどう考えても常軌を逸していると思うぞ。もちろん、金に余裕があって払ってもへっちゃらな人は好きに払えばいいが俺はどんなに金があってもヤダ、まあ俺んちの場合、神式だから来るのは神主であり、そもそもそんな金もないのだが(笑)、いずれにせよ、お経を読んで戒名を付けてもらうのに百万も払うのは実に馬鹿馬鹿しい。普段の行いよりも生臭坊主に払う布施の多寡によって地獄に行くか、極楽に行くかが決まるって、考え方は免罪符のそれとまんまおんなじじゃんか。生前、散々悪いことをしても坊主にたくさん金を払えば極楽浄土が保証され、逆に良いことをたくさんしても布施の料が少ないと行けるのは地獄だったり、或いはボチボチの極楽であったりと、そんな矛盾した話ってあるかよ、バカタレ。
何度も言うように高額お布施を払いたい人は払えばいい、生前の善行悪行を問わず、それで本人と遺族が満足するなら好きほど払え。でも、世の中にはこれまでの檀家のシステムをやっぱりおかしいと思う人がいてもなんら不思議ではない、そういった人が明朗会計ぽっきり価格のお坊さん便を利用する人がいてもまったく問題ないはずだ。個人的にはむしろそれでいいとさえ思っている。悪しき慣習にいつまでも拘泥する必要はないと思うんだよねぇ。
(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/ASJ846WYSJ84ULFA020.html
免罪符って言葉は知っているでしょう?
意味は罪や責めをまぬがれるために遣う言葉や物のことね。大抵の場合、実際には償いにならない言い訳的なことに遣うことが多い。
「機動隊の誰に殴られたか立証できないし、向こうには公務執行妨害罪という免罪符がある。(ひぐらしのなく頃に、綿流し編より引用)」、などと遣うが、しかし、語源を忘れている人は殊のほか多い。
免罪符の語源は16世紀まで遡る。1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のため、教皇レオ10世が民衆に寄付を募ったのであるが、ただ金をくれといってもそう易々と寄進してはくれやしない、教皇レオ10世は非常に困った、じゃあどうするか、よしだったら金を支払ってくれた人には今までの罪を全て免償する特別札を発行しよう、それが即ち免罪符であるというのが語源の成り立ち、正しくは贖宥状(しょくゆうじょう)という。当然これには金を払えば人を殺そうが、泥棒をしようが許されてしまうのかという大きな問題が孕んでいる。この免罪符にけしからんと真っ向から意を唱え、宗教改革を断行したのが有名なマルティン・ルター、世界史で習ったよな?習ったんだよ!
もうね、洋の東西を問わず、昔から宗教と金という問題は切っても切れないシームレスな関係であったりする。
今回の坊さんの明朗会計もそう、坊さんだって喰っていかなくてはならないから常識的な範囲でのお布施はいいと思う、だけど、1回あたり数十万、数百万円の費用ってどう考えても常軌を逸していると思うぞ。もちろん、金に余裕があって払ってもへっちゃらな人は好きに払えばいいが俺はどんなに金があってもヤダ、まあ俺んちの場合、神式だから来るのは神主であり、そもそもそんな金もないのだが(笑)、いずれにせよ、お経を読んで戒名を付けてもらうのに百万も払うのは実に馬鹿馬鹿しい。普段の行いよりも生臭坊主に払う布施の多寡によって地獄に行くか、極楽に行くかが決まるって、考え方は免罪符のそれとまんまおんなじじゃんか。生前、散々悪いことをしても坊主にたくさん金を払えば極楽浄土が保証され、逆に良いことをたくさんしても布施の料が少ないと行けるのは地獄だったり、或いはボチボチの極楽であったりと、そんな矛盾した話ってあるかよ、バカタレ。
何度も言うように高額お布施を払いたい人は払えばいい、生前の善行悪行を問わず、それで本人と遺族が満足するなら好きほど払え。でも、世の中にはこれまでの檀家のシステムをやっぱりおかしいと思う人がいてもなんら不思議ではない、そういった人が明朗会計ぽっきり価格のお坊さん便を利用する人がいてもまったく問題ないはずだ。個人的にはむしろそれでいいとさえ思っている。悪しき慣習にいつまでも拘泥する必要はないと思うんだよねぇ。